宮崎カポネ信義

 

CAPONE JAZZ STYLE

 

 

 

 

 

     カポネのつぶやき

 

2012年

4月

28日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 40

習い始めてから 5,6年も経ったころでしょうか。

 

毎月、4週目の本読み合わせ討論会の時 

先生が 「この教室のことを 今日から 煉塾(れんじゅく)と 名づける。

お前たちは 俺の 塾生だ。」

と また 急に 難しいことを 言い始めました。

 

先生は 日ごろから 色々 本を読んで 勉強されていたみたいですから きっと

幕末明治の、 日本を動かしていく大物政治家を 多く輩出したといわれる 吉田松陰の塾 

に感銘を受けての事だったに 違いありません。

 

先生は、 僕を除いてですが、生徒達の中に これはと思う人も 何人か いて、 

これからの 日本の ジャズギター界を 切り開いて行く人材に育って欲しいと願って 

自分のレッスングループを 煉塾と 名づけ、 僕たちを 塾生と呼び

僕たちの 志と情熱を 奮起させようと したのでしょう。

 

 

教えを乞う者と 教える側、弟子と師匠・・・・・・・・・

日本人の 伝統を 後世に伝える 古きよき姿が そこにはありました。

その時 僕たちは 紛れも無く、 師匠と弟子たちが 車座になって 時間を共有していました。

 

 

果たして今、 僕たちは 先生の その願いを果たす事が 出来ているのでしょうか・・・

 

 

高柳さんは とにかく 志の高い人でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

  

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2012年

4月

26日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 39

高柳さんは 当時の僕にとっては 絶対的な存在であり レッスンは 非常に厳しく

妥協を許されないものがありました。

 

しかし、長いこと通っていると その中にも 親しみと ユーモアを

感じる時も 多々 ありました。

 

ある夏の暑い日の昼下がり レッスンに向かうため 四谷の駅を出て

歩いていて 途中の駄菓子屋で アイスクリームを 売っているのを見かけ

「あ、そうだ、これを 先生と一緒に 食べようかな?」 と思い

2個 買いました。

 

それを持って 先生の家に 向かう途中 『これからレッスンだというのに アイスクリームなんか

持って行ったら 怒られるかなあ?・・・』 という思いが湧いてきて

不安になりました。

 

色々 考えたのですが

『ええい、出たとこ勝負だ!何とかなるさ!』 と決め、

お土産として 持って行きました。

 

「せんせい、お早うございます。」

「おう、宮崎、はいれ」

少し 不安な気持ちもありながら 「先生 今日は凄く暑いから アイスクリーム買って来ました。

食べましょうよ!」

すると先生は 意外にも あっさりと

「サンキュー」 と言って 嬉しそうにしました。

 

レッスンで 二人で アイスクリームを食べたのは 懐かしい思い出ですが、

他の生徒たちは このような経験は したのでしょうか?

聞いてみたい気がします・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

先生の部屋で 二人で食べた アイスクリーム。

今となっては 本当に 楽しく 懐かしい 時間でした。

 

 

でも 先生は もう居ません・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

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2012年

4月

23日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 38

レッスンに何年も通っていると お互いに 体調が 思わしくない時が たまには あります。

僕が 調子悪いときは 先生にその旨を伝えて 休めばいいのですが

先生の 体調が悪いときも たまには ありました。

 

そのときは レッスンが 中止になるのではなく 実に変わった形の レッスンとなりました。

 

後にも先にも そんな レッスン風景は 聞いたこともありませんが・・・・・・・・

 

 

ある日のレッスンで

部屋の前で 前の生徒が (つまり 渡辺香津美さんですが)

終わるのを待っていると 渡辺さんが そうっと静かに ドアを開けて出てきて

「先生は風邪を引いているみたいです」 と言って 部屋の中の テープレコーダーを 指差しました。

そして 小さい声で 「お先に失礼します・・」 と 帰っていきました。

 

僕も 忍び足で 部屋の中にはいって 椅子に座って 机の上を見ると

テープレコーダーが置いてあり 大きめの メモ用紙に このように 書いてありました。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

1 録音ボタンを押して 名前を言う。

2 教則本の 何ページの何を 弾くかを 言う。

3 演奏する。

4 終わったら 録音終了ボタンを押す。

 

私は風邪を引いて 体調が良くないので 隣の部屋で休んでいるから 

あまり 物音を立てないように。

録音されたものについては 後で聴いて 来週のレッスンで 注意点を伝える。

                                         以上

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

このときほど 緊張して演奏した事は ありません。

失敗してつまずいた時は 「すみません!失敗しました。もう一度やります!」

と言って テープレコーダーに頭を下げて 謝りました。

 

今から 考えると おかしいですよね、この光景は。

しかし そのときは 真剣です。

若かったのでしょうか・・・・・

 

 

 

 

 

これも 高柳さんとの 懐かしい思い出の一つです。

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

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2012年

4月

18日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 37

レッスンが 進まない事の言い訳に 「時間がない」というと

先生は 「ミヤザキ、お前は 寝てるんだろう?」 と意外にも 聞いてきました。

 

「どうやって寝てるんだ?」 と聞かれて

僕は 「少し疲れたし 夜も遅いから 寝ようかな・・・と思って パジャマに着替えて

ベッドまで歩いていって 布団をかぶって 寝ています。」

と 屈託無く 答えました。

 

すると 「ミヤザキなあ、この業界では 寝る ということは そういう事では ないんだよ。

     寝ると いうのはなあ、

     練習して練習して 疲れても練習して、そして いつの間にか そのままの形で

     気を失って 右手に持っていたピックが ひざの上に落ちて

     その ポトッ という音で ハッ と目が覚め 我に帰り

     あ、寝なくちゃいけない・・・・・・と、ベッドまで 這って行って 布団の上に

     はいつくばるようにして 眠る事を ‘寝る’ と言うんだよ。」

 

と先生は 言いました。

 

そのときは 信じられないような思いと そこまで ギターに 打ち込んで いるのだろう先生の

心情に深く感銘しました。

 

しかし先生には 何十人、何百人の生徒がいたでしょうが、

皆に そんな事を 言っていたのでしょうか?

 

今は そのことを 他の生徒たちに 聞いてみたいという 興味が あります。

 

もしかしたら 僕が 特別 落ちこぼれで 怠けているように見られて

叱咤激励の意味を込めて 高柳さんは こう言ったのかも しれません。

 

それを 先生に 確かめたくても 先生は もう この世に いません。

 

 

 

今、淋しく 思います・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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2012年

4月

17日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 36

レッスンに通い始めてから 3,4年くらい経って 僕も バンド生活に慣れた頃

高柳さんに 言われた事で 忘れられない一言があります。

 

度肝を抜かれたと言うか、心底 驚き 感心しました。

 

「練習しろ練習しろ」 と言われて 時間割表も作って 真面目に生活しては いたのですが

時には 怠情に 流されたり 気持ちが緩んだりして レッスンの進み具合が

はかばかしくない時も ありました。

どちらかと言うと 僕は 優等生タイプでは ありませんから・・・・・・  

 

「先生、時間が無いんですよ・・・」 と 当然のように 言い訳をしました。

すると先生は

当たり前のように 静かに 言いました。

 

「ミヤザキ お前 寝てるんだろう?」

僕は 次に 言われるであろう セリフを 予測できなくて にっこり笑って

「はい、寝てます。」 と 答えました。

 

すると先生は こう 言ったのです。

 

「ミヤザキなあ・・・・・・寝るというのはなあ・・・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

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2012年

4月

16日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 35

先生が いつも口癖のように言っていた事の ひとつに こういうことも ありました。

 

「教則本を練習する時には いつも メトロノームを使うように。

そのメトロノームは ドイツ製のウィットナー社の 周りが木で出来た 三角錐形のものが

望ましい・・・・・・・・・・・・・・・・」 

 

 

 

それは ぜんまい式の ねじで出来ていて 正面のパネルに テンポの数字が刻んであって

見た目も 非常に美しく そして 音も カチカチカチカチとコンコンコンコン の間くらいの感じの音で

微妙な 味わいが ありました。

 

これは今から40年前くらいの話をしているわけですが、

今現在でも たまに 楽器屋さんに行くと 同じ物が 売られているのを見ます。

やはり 良い物は 時代を超えて 永く使われるのですね。

 

しかし ぜんまい式のねじ なので 4,50分も使っていると ぜんまいが ゆるんで

止まってしまいます。

また、ねじを 巻いて カチカチさせます。

 

その繰り返しで、 1日 何時間も使っていると 1年も過ぎる頃には 

ぜんまいが ダメになってきます。

そうすると また 新しいのを 買わなくてはいけません。

 

先生は メトロノームを 使った練習では 次のことを 厳しく指摘していました。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

とにかく ゆっくり 練習する。

一つのこと(フレーズ等)が 完全に 弾けるテンポ

仮にそれが 4分音符=80 だとしたら そのテンポで 3回 続けて ミスが無ければ

テンポを 4分音符=86 くらいに上げる。

そしてまた そのテンポで 3回 ミスが無ければ また同じような感じで

テンポを 上げる。

そうやって 最終的な 目標のテンポに向かって 繰り返し 練習する。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

この練習方法は 実際にやってみると 意外と きついです。

しかし 正確に 自分の物にすることが出来ます。

 

僕は 習っていた10年くらいの間に そのメトロノームを 7回 買いかえた記憶があります。

 

 

 

懐かしく 思い出します・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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2012年

4月

13日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 34

先生がいつも 口癖のように 口を酸っぱくして言っていた事は まだ 他にも 色々あります。

 

「ジャズのアドリブっていうものは ‘起承転結’が なくてはいけない。

いつも 日常から そういうことを訓練する必要がある。

とにかく 時間を 無駄にしては いけない。

 

電車に乗っていても ボーっと 座っているなんて とんでもない。

愚の骨頂だ。

自分の目の前に座っている人間の 足元から 頭のてっぺんまで よく観察して

想像力を働かせるんだ。

 

髪形や服装を見て、 サラリーマンなのか 自営業なのか 年齢は いくつくらいなのか

結婚しているのか しているとしたら 奥さんはどんな人なのか・・・・・・というような事を

自分なりに 想像して 考える訓練をしなさい。

それが、のちに アドリブを構成する力に なるのだ。」

 

本当でしょうか???

 

ひとつの 例として、 

足元を見て、靴が 古い物だとしたら それが よく磨かれ

手入れされているのか、そうではないのか。

その人が 結婚しているような 年齢だとして、よく磨かれている靴であれば

多分 奥さんが よく気がつく人であるはずだ。

もしかしたら 子供が 磨いているのかもしれない。

そうだとしたら、子供のしつけも 上手にしていると考えられる。

もしかしたら 例外的に 自分が磨いているのだとも 考えられる。

そうだとしたら この人は 家庭の中で 孤立しているのかもしれません・・・・・・

 

 

とまあ このように 足元の靴、一つを見ても 色々なことを 想像する事が できるのです。

 

「こういう力を 養え!」 と先生は いつも 言っていました。

 

僕も 20代、30代のころは いつも 人を このように 観察していました。

 

 

懐かしく 思い出します・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

4月

10日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 33

人間と言うものは 色々な‘面’を持っていて 人生を深く学び 経験した人間ほど

その ‘面’ は 多く 複雑になります。

親に対する時、妻に対する時、子供に対する時、そして

先輩や会社の社長や同僚などに対する時など

それぞれに 自分の 持っている 面 のすべてを 使い分けて 

対峙しているのでは ないでしょうか・・・・・・・・

 

 

高柳昌行さんも その例に漏れず 多くの ‘面’を 持っていました。

小さい範囲に絞り込んでも 生徒たちに 対する時ですら 

もしかしたら 一人ひとりに 違う‘面’を 見せていたかもしれません。

 

そういう意味で、当時の生徒たちが 集まって 同窓会のようなものを開いて 師匠との

思い出を 話し合ったら 楽しいだろうな ・・・ と 思っています。

 

 

さて、師匠・高柳昌行さんは 僕に対しては かなり 厳しく いつも 「練習しろ練習しろ」

「時間を無駄にするな」 「ライブやコンサートを見に行く暇があるなら 家で 練習しろ」

 

「家での練習は 中学や 高校の時のように 月曜日から日曜日までの 

時間割表を作りなさい。

1教程を 約2時間単位にして コピーや レッスンの復習 予習、そして 曲の練習 等々

自分で色々考えて それを 時間割表にして 練習しなさい。」

と、事あるごとに 口を酸っぱくして 言っていました。

 

21,2歳のころの僕は 先生の教えを 忠実に守ろうとしていました。

 

その頃は チリ紙交換をやっていたので 思うように 練習時間を 取れませんでしたが

明るく 明日に向かっての 希望で、いっぱいでした。

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

  

 

 

 

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2012年

4月

06日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 32

そう言って 僕は 喫茶店のアルバイトから 1ヶ月の バンド生活、 そして 今に至る

チリ紙交換までの 経過を かいつまんで 高柳さんに 話しました。

 

先生は 僕の その話を、 時々 笑いながら そして 「うんうん」 と相槌を打ちながら 

じいっと 聞いていてくれました。

 

僕の話が 終わると 先生が 静かに 切り出しました。

「みやざき、いつも言っているように 大きな木というものは 表面に出ている 枝や幹の 何倍もの

大きさの 根を 地下に 張り巡らせているんだ。

お前は 今 一生懸命に 根を 伸ばそうとしている ところなんだ。

ミヤザキ! 世阿弥 観阿弥 って 知っているか?」

 

僕は 『ゼリーや 寒天なら 知っているが・・・そんな名前 聞いたことも無いなあ・・・』 

と 密かに 心の中で 思い 表面上は 「いいえ、知りません!」

と まともな 答えを しました。

 

すると先生は 

「世阿弥観阿弥って言うのは 日本の最古の 芸能・芸術書である ‘花伝書’ を

後世に 残した 人達だよ。

花伝書には あらゆる 芸能芸術の極意を したためてあるんだ。

其の中でも 一番大切な ところは、 

歳 早く 開いた花は 決して 大輪には なりえず

開いたとしても 小さい花のままで 終わる事が多い。 それに引き換え 

壮年期から 開き始めた 花 というのは 大輪に 育ち、 しかも すぐには 散らず 

長い間 咲きつづける。」

 

と説明してくれました。

 

僕は 偉いお坊さんから ありがたいお説教でも 聞いたような 気持ちになって

世阿弥観阿弥花伝書、世阿弥観阿弥花伝書・・と 心の中で 繰り返しました。

 

「だから あせらないで レッスンを きちんと やりなさい。」

と、最後に 締めくくって くれました。

 

僕は チリ紙交換の 仕事中であるということも忘れて ずーっと その場に 居たかったのですが

先生の お邪魔をしては いけないと思い 「ありがとうございました!」と 言って

持っていた 交換用の チリ紙、トイレットペーパー をすべて 先生にあげました。

 

高柳さんは 「お、こんなに もらって いいのかぁ?」

 

僕は「 ええ、いいんです。 これから 会社に帰って また 仕入れますから。使って下さい」

 

先生は 「 お、サンキュー」 と軽く 言いました。

 

僕は 「失礼します」 と言って 先生の部屋を 出て 

おんぼろトラックに乗り 荻窪の会社まで 戻りました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

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2012年

4月

05日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 31

2階の先生の家に 上がる時に 

なんだか 凄く 得した気分でした。

何故なら レッスン日に 先生に 会えるのは 月謝を払っているから 当然といえば

当然の権利 なのですが、 レッスン日でもないのに 先生に 会えるというのは

僕にしてみたら 帝国ホテルのバイキングが 500円で食べられるような 感じでしょうか・・・

 

まあ とにかく そんな感じで 先生の部屋に 「おじゃましま~~す」 と言って 上がりこみました。

 

毎週 月曜日のレッスンで 何十回となく 先生の部屋に 上がっているのですが、

その時の先生の部屋の印象は いつもと 違っていました。

 

玄関を上がって すぐのところに インスタントラーメンが ハコ買いで 置いてありました。

「あれ?いつもは こんなもの 置いてなかったぞ・・・」

 

多分 レッスン日には ある程度 部屋を 片付けて 生徒たちに 見せたくない物は

仕舞ってあったのでしょう。

 

突然の チリ紙交換屋の 訪問に 驚いて 片付ける暇がなかったのか、

それとも ミヤザキになら 見せてもいいと 思ったのか。

さあ どちらでしょう・・・・・・・・・・

 

きっと インスタントラーメンは 深夜にまで及ぶ 練習や 執筆などで 小腹が すいた時に

簡単に作れるので 用意してあったのだろうと 思われます。

先生は 日ごろ 厳しく 「寝る暇も おしんで 練習しろ」 と いつも 言っていましたが、

先生自身でも それを 実践していたことが 想像されます。

 

というような事を 瞬間的に 思い 先生の部屋に 入りました。

 

 

 

「おう!ミヤザキ! お前、 チリ紙交換やっているのか! 

喫茶店で アルバイトやっているのじゃ なかったのか?」

と 言葉は 乱暴ですが 優しい口調で 言いました。

 

「はい、あれから 色々なことがありまして・・・・・

実は 僕、 バンドに入ったんです。」

 

「ええ!お前、バンドなんか できるのか?」

 

「ええ 出来ませんでした・・・・・・・・・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

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2012年

4月

04日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 30

高柳さんは つね日ごろ 

「ジャズギタリストを 志すやつらは 

痩せて がりがりで 青白い顔した やつ ばっかりだ。

そして 4畳半で チマチマ ギターを弾いている。」

と言って 憤慨している様子を 隠そうともしませんでした。

 

ある日の 4週目の 本読みあわせ会のとき 15,6人の 生徒たちを 見回して

「お前たち みんな、上半身 裸にして ギターを背負って 四谷の町を 自転車に乗って

走らせるか! そのくらいのことをしないと 度胸がつかないだろう!

まあ、ミヤザキは いいけどな・・・・・」

 

その時僕は 誉められているのか、馬鹿にされているのか 

よく解からないけど 妙に 嬉しい思いが しました。

 

 

『あ、先生に 認められているのかな?』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

多分それは、

僕が アルバイトで チリ紙交換をやって、 町中 大きな声で

「え~~~毎度おなじみ チリ紙交換です・・」と マイクを通して 怒鳴っているのを

つい 先日 自分の目で 見たからかも しれません。

 

 

 

 

 

それは チリ紙交換をはじめて 2,3ヶ月して 車の運転にも 慣れた頃

荻窪から あの 雑踏の新宿を抜けて 四谷の 先生のアパートの前に 車を止めて

 

「え~~~~毎度おなじみ チリ紙交換でございます。高柳さん 高柳さん、 古新聞は

ございませんか?」 と 大きな声で 放送しました。

 

先生は 窓から ビックリした顔を 出して じーっと こちらの様子を うかがっています。

すかざず 僕は 「せんせい 僕です。みやざきです。」

と言って 車の 窓ガラスを 下ろしました。

 

先生は 「おー ミヤザキかぁ! 上がれ 上がって来い!」

 

僕は 「はい」と言って 車から 降りました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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2012年

4月

03日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 29

「これが、ケニー バレルのぶん・・・」

と言って また かばんから さっきと同じ分量くらいの 譜面の束を 取り出して

「これが、ウェス モンゴメリーのぶん」

と言いました。

 

そして また かばんから 同じ分量くらいの 譜面の束を取り出して

「これが、ジム ホールのぶん」と言い

上目づかいに ちらっ と 僕のほうを 見ました。

 

その顔は 遠慮がちではあるが 誇らしげに 勝利を宣言しているかのようでした。

 

なんと そして さらに また同じ分量くらいの 譜面の束を かばんから 取り出して

「これが、バーニー ケッセルのぶん」

そして さらに 

「これが、 ジョー パスのぶん」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

開いた口が ふさがらないとは こういうときの事を 言うのでしょうか。

 

僕の 5倍くらいの量の 譜面の束でした。

 

 

 

 

高柳さんは 「コピーに関しては 一人のミュージシャンについて デビューから

10年 おきくらいに LP3枚くらいやれば、そのミュージシャに ついては 完璧に

把握する事ができる。人によっては 1枚くらいで 充分なやつも いるけどな・・・・」

と 言っていました。

 

そして 「その ミュージシャンが 今 どんな気持ちで そして どんな顔をして 弾いているか

笑っているのか 顔をゆがめているのか 歯を食いしばっているのか 

という事まで 想像できるくらいに ならなくては いけない。」

ということも 言っていました。

 

 

 

「ジャズ は 個性的な音楽だから オリジナリティー を大切にしろ。」

と 口を 酸っぱくして 言われていたので

僕は コピーはするのですが それを 何度も 弾く練習は しませんでした。

何故なら その人に 似てしまうからです。

 

向井くんも そう思っていたようでした・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

今になって 思うのですが ある意味、 ジャズ という音楽は

口伝芸術 とでも いうのでしょうか。

やはり すぐれた アドリブを そっくりそのまま 自分の中に 取り入れる作業は

必須だろうと 思います。

 

 

向井くんは 僕の 5倍の分量の コピーの譜面の束を 見せましたが

結局 それを 弾きこなさなければ 自分の 音楽の 財産には ならないのです。

 

僕も 全く そうでした。

              

 

 

 

 

 

 

しかし 若いときの 僕たちは それに 気がつきませんでした。

あまりにも高柳さんの存在が 大きくて 疑問を はさむ 余地も なかったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

4月

02日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 28

僕たち 高柳昌行 門下生の数人は 四谷にある自宅での レッスンが終わると

四谷駅前の喫茶店 『ロン』 で 待ち合わせて その日のレッスンの出来具合や 

高柳さんの言った言葉などについて 話し合ったりしていました。

 

メンバーは 平沢くん 御厨くん 向井君 今井くんなど だいたいいつも 4,5人くらいでした。

僕の中では 戦友とも呼べる 懐かしい人達です。

 

平沢くんは 今 高橋ゲタ夫さんの ‘ローライダーズ’ で ジョージ という名で 活躍しています。

メロディーラインの 切り口が 非常に斬新で とてもユニークな存在です。

 

御厨くんは サーカスというコーラスバンドのリーダーをやっていると聞いています。

そして スクエアのギターの 安藤くんと二人で ‘あんみつ’ という デュオグループを 

やっているそうです。

いつか 御厨くんのギターを 聴いてみたいと思っています・・・・・・

 

向井君と 今井君は 今どうしているか・・・・不明です。

会ってみたいな・・・・・

 

 

 

さて、 僕は コピーした 厚さ7センチくらいの 譜面の束を持って 

ロン で 向井君を いつものように待ちました。

 

僕は 自信満々に 譜面の束を テーブルの上に どさっと 置いて 「どうだ!」という気持ちを込めて

「ま、こんなもんかな?」というと 

向井君は  僕よりは 少し 少なめの量の 譜面の束を テーブルの上に 

静かに 恥ずかしそうに 置きました。

僕は 内心 勝った! と思って ゆっくり タバコに火をつけ 一服しました。

 

 

 

 

 

 

すると 驚くではありませんか。

向井君は こう 言ったのです・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・ 

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2012年

3月

31日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 27

やっとの思いで 約束の 1ヶ月間が 過ぎました。

ミッキー宮崎さんと 大島 信ちゃんたちに お詫びの挨拶をして お別れをしました。

 

さあ これから 何をして 生活費を 稼ごうか・・・・・・

 

先月までやっていた 高円寺の 純喫茶 「華」には もう 戻れないし・・・・

 

 

だって皆 あんなに喜んでくれて しかも 盛大に 送別会まで やってくれて

「宮崎君 来月から プロのギタリストだね! 夢が叶って 良かったね!」

と言って 送り出してくれたのに 1ヶ月で クビに なったなんて 恥ずかしくて 

死んでも言えない・・・・

 

 

 

とまあ こんな事を 荻窪の部屋で 考えていると 

窓の外に 『ちり紙交換』 の会社が 見えるでは ありませんか!!

地獄で仏 とは こういうことを 言うんだと とっさに 思いました。

『あ、そうだ!ちり紙交換を やろう!』 と軽く考えて 決めました。

 

若いときの僕は あまり 物事を 深く考える事が 出来なかったので 

逆に それが 良かったのかもしれません。

 

 

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

チリ紙交換を やるくだりは この ホームページの コラム欄に

「え~~ 毎度おなじみ チリ紙交換でございます」   という タイトルで 詳しく 書いてありますので

時間に余裕のある方は そちらも 見てください。 よろしくお願いします。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 

 

 

こうして プロの ギタリストとしての スタートは 無残にも 砕け散りました。 

 

また 明日からは 高柳 昌行さんのレッスンが すべての 生活に なります。

 

 

 

高柳さんは 日ごろから 

「ジャズ というものは 個性的な音楽だから オリジナリティーを大切にしろ。

そして コピーもしろ」 と 言っていました。

 

僕は 当時 好きだった ケニー バレル や ウエス モンゴメリー、 ジム ホール 

を中心に コピーしていました。

 

オープンリール のテープレコーダーデッキ に LPレコードから 録音して 

それを 2分の1 のスピードに 変換して 何度も 何度も 繰り返し繰り返し 聴いて

コピーします。

 

まだ 耳が 鍛えられていない僕は コピーすることも 容易では ありませんでした。

やっとの思いで コピーした フレーズを 譜面に書き写して 完成です。

 

 

 

ある日 兄弟弟子の 向井くんと 「どれだけコピーしているか 見せ合おうよ」 ということになり 

僕は 自信満々で 自分が 今までにコピーした 譜面の束を 持って行きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 

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2012年

3月

29日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 26

2回目のステージが終わって 控え室に 戻ってきたら

信ちゃんが 「宮崎くん ちょっと ギター貸して!」 と 言いました。

僕は 弾くな と言われてから 自分なりの 少しばかりの 小さな自信も 完全に喪失してしまって

控え室の 隅のほうで 小さくなっていました。

 

信ちゃんに 素直に 「はい」 と言って ギターを差し出すと

「チューニングが ひどくて コーラス 出来ないんだよ!!」 と言って

僕のギターを チューニング し始めました。

 

その信ちゃんの様子を 見ながら、言いようのない 恥ずかしさに 襲われました。

『自分の ギターの チューニングが 狂っている事もわからないなんて 最低なやつだなあ・・・』 と

自分を 責めました。

 

その時は チューニングの狂いが コーラスに 影響を 及ぼすという事が 

全然 理解出来ませんでしたが、 経験を 積んで 自分でも 歌うようになると

そのことが よく わかるように なりました。

 

だから、信ちゃんも 意地悪で したのではなく

生理的に我慢が 出来なかったのだと 思います。 

 

「弾くな、弾いている振りをしろ」 と 言われた事と

自分のギターを 他人に しかも ドラマーに チューニングされたという事。

この二つの 出来事が 40年経った今でも 心に 残っています。

 

でも、 最初から 完全に できる人など いません。

そこから どうやって 這い上がっていくか・・・・だと 思います。

 

しかし 僕は もう本当に つぶれる 寸前でした・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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2012年

3月

28日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 25

大島 信ちゃんは 僕に 目配せをして 首を横に 振りました。

『何が言いたいんだろう?』 と思って 近づくと、 ドラムを叩きながら 早口で こう言いました。

 

「弾かなくていいから・・・・・・弾いてる真似してて」

 

僕は事態を とっさに 飲み込みました。

ギターのアンプの電源が 自然に 切れたのではなく

大島 信ちゃんが ドラムを叩きながら アンプのスイッチを切っていたのでした・・・・・・・・・

 

僕は 言われたとおりに 正面を向いて ギターを弾いている真似を しました。

 

 

 

 

信ちゃんは 特別に 意地悪な人でも 悪い人でも なく、普通に 優しい人でした。

その信ちゃんが そういう行動に 出るという事は 

僕の演奏が そのくらい ひどかったのだと思います。

 

自分の力が そのバンドの中で どのくらいの物なのか という見極めも 全く できていない

ずぶの 素人でした。

 

ミッキー宮崎さんの バンドの皆さんに 非常に迷惑をかけてしまった と、 今は そう思います。

 

 

 

音楽というものは 不思議なもので 

特に 音楽の3要素の一つ、 リズムが 合わないと 演奏者たちは 生理的に 嫌悪感を覚えます。

その人間が 嫌いなわけではないのですが 

往々にして そのような 行動に 出てしまうものなのです。

 

(その逆に リズムが 合うと、連帯感と いいようのない陶酔感に満たされる訳ですが・・・・・・)

 

 

正面を向いて ギターの弾き真似をしていた時間が どのくらいだったのかは 忘れましたが

短かったような気もするし 長かったような気もします。

人前で ギターを 弾いている フリ をするという事が あれほど

恥ずかしい物だという・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

いい経験を しました。

 

そのステージが終わって 大島 信ちゃんが 「宮崎くん 弾かなくていいから」 と言い

僕は 「はい わかりました」 と答えました。

 

きっと 信ちゃんは  他のメンバーに対して、 

自分が 連れてきたギターだからという 引け目が あってのことだったのでしょう。

 

ミッキー宮崎さんが 「いいよ いいよ、少し ボリュームを下げて 弾いててください」

と 助け舟を 出してくれました。

 

 

こうして その日は 過ぎていきました。

 

 

しかし それから 数日後

また 信ちゃんが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

27日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 24

「さあ 行こう」 とミッキーさんに 促されて スコッチクラブへ戻りました。

ミッキーさんの あとから ひとり とぼとぼ ついて行きながらも 

残りの3人のメンバーに 泣いている事が わかると 恥ずかしいので 両手で 涙を ぬぐいました。

 

若いときの僕は 周りの人に 気遣う余裕など無く 

ひとり勝手に 意気消沈して 落ち込んでおりました。

 

残り3人のメンバーも 事態を飲み込んでいるみたいで 特別に 何も 声をかけてはきませんでした。

 

 

さて、次の日から 残りの15日間・・・・・・・・・・・・・・

 

クビを宣告された次の日、

ステージで ギターを弾いていると 急に 音が 出なくなりました。

おかしいなぁ・・・・と思い ギターアンプまで 近づいてみると 何故か 電源が 切れています。

あわてて スイッチを入れて 正面を向いて 演奏しました。

 

また しばらくすると 音が出なくなります・・・・・・・・・・・・・

ああ また 電源が切れたのかな? と思って 振り返って アンプに近づいていく時

ドラムの 大島信ちゃんと 目が合いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

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2012年

3月

26日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 23

涙の懇願も 受け入れてはもらえませんでした。

何故なら 来月から来るギターの人は もう既に 決まっていたのでした。

 

それが プロの世界の ルールのようでした。

 

僕が ミッキー宮崎さんのバンドに入れてもらって 2,3日 経ったころから

代わりのギターの人を 探していたみたいでしたが、

月の始めということもあって 相応しい人が なかなか見つからなかったようでした。

やっと見つかったのが 昨日、 ということだったのでしょう。

 

僕は 来月から来る人が 決まっている と言われた時に 全てを悟り 諦めました。

「はい、わかりました。ありがとうございました」 と言って

スコッチクラブに 戻りました。

 

考えてみたら、 イントロ 間奏 エンディングを 弾いた事が無く

ただ リズムギターを じゃかじゃかじゃかじゃか と弾いているだけでした。

そして スコッチクラブには 二つのバンドがあるので バンドが 交代する時は

チェンジワルツ といって 先方が 演奏した3拍子の曲と同じ曲を 引き継いで 演奏するのも

本来 僕の 役目だったのですが もちろん そんな曲も 知るわけも無く

みんな ミッキーさんが やってくれていたのでした。

 

高柳 昌行さんは 日ごろから こう言っていました。

 

「木の種を植えると なかなか 芽を出さないが 木は 地中に 一生懸命 根を伸ばしているんだ。

大きな木に なればなるほど 地中深くに 先ず 根を 生やすんだ。

そして やっと 地上に 芽を 出し始めるものなのだ。

おまえたちも それと同じで 今は 大きな木に育つ為に 根を 張っている所なんだ。」・・・・・・・

 

 

だから レッスンでは 基礎、また基礎 の繰り返しで 

ジャズのフレーズや 曲や コードの類など

一切 教わった事が ありませんでした。

 

大島 信ちゃんは 高柳昌行さんに 習っているという理由だけで 

僕を バンドに誘ってくれたのでしたが 一つも お役に立つことは 出来ませんでした。

 

3回目のステージをやらなければいけないスコッチクラブに帰る 道すがら

涙が溢れて 止まりませんでした。

 

 

 

知らなかったとはいえ プロへの道は 遠く 厳しいものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

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2012年

3月

24日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 22

2日めの ファーストステージも 無事に終わり 

メンバーの皆さんは いつものように お茶を飲みに 行きました。

 

バンマスの ミッキー宮崎さんが 「宮崎君は 行かないの?」 と 聞くので

「はい ここで練習しています」 と言って 控え室に 残りました。

 

高柳さんのレッスンの 練習を していましたが メインのジャズバンドの 演奏が 気になり

ステージのそばまで行って 休憩時間の終わりまで 聴いていました。

 

メンバーの皆さんは、 ステージの始まる5分くらい前には 戻ってきているようでした。

バンマスに促されるようにして 僕たちの 歌謡コーラスバンドの 2ステージ目が 始まりました。

 

 

 

・・・・・・・とまあ だいたい このような繰り返しが スコッチクラブでの 仕事の様子でした。

 

 

 

 

 

順調に 毎日が過ぎて 練習時間も増えて 希望が現実と なりそうな 

本当に 楽しい毎日でした。

 

 

 

 

スコッチクラブでの仕事が 2週間も 過ぎようかという ある日・・・・・・・

 

 

ファーストステージが終わり 

バンマスが 「宮崎君 ご馳走するから お茶飲みに行こうよ」 と言いました。

 

僕は あまり 断るのも悪いので 「はい ありがとうございます」 と言って

皆さんが いつも行く 喫茶店に ついて行きました。

 

ところが、その日は、 どういうわけか、 2ステージ目が終わって また、ミッキー宮崎さんが

「宮崎君 お茶飲みに行こう!」 と今度は 少し強く 言いました。

僕は 『1日に2回も、コーヒーをご馳走してくれるんだ、嬉しいな・・・』 と思いながらついていきました。

 

 

 

 

ミッキーさんは 僕の 向かいに座り 静かに切り出しました。

「宮崎君 今月で 上がってくれる?」

 

僕は 何が起こっているのか 全く 理解する事ができませんでした。

 

 

 

話を聞いてみると 要するに クビ ということでした。

 

 

 

辞めるのも やめさせるのも 丸1ヶ月の猶予を持って 伝えると言うのが

ハコのバンドの 常識のようでしたが、

 

僕の場合は 下手なうえに 仕事のやり方も プロのバンドマン としての ルールも 常識も

知らない 並外れた 桁違いの アホだったようでした。

 

何事もなく 順調に 仕事が進んでいると思っていたのは 僕だけで、 

メンバーの皆さんは あきれて ものも言えなかったようでした。

 

 

 

ミッキー宮崎さんのバンドの中での ギターのポジションは 非常に 重要なもので

曲の、 イントロ 間奏 エンディング を 担当して 全体をリードしていかなければ 

いけなかったのです。

 

最初の日 僕が 初見ができなくて 弾けなかった時 

ミッキー宮崎さんが 「あ、僕がひくからいいよ」 と言ってくれたので 

僕はそれで いいものと思っていたのですが 

『あとで 練習して 弾けるようにしておいて下さい』  というのが 

プロの暗黙の ルールなのでした・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

僕は 必死になって ミッキーさんに 懇願しました。

「一生懸命 がんばりますから クビにしないで下さい・・・・・・来月から 生活に 困るんです・・・」

 

プロのバンドのルールとして、 この涙の懇願も

とうてい 受け入れられるものでは ありませんでした。

 

 

何故なら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

23日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 21

このようにして 僕の プロとしての生活が 始まったわけですが・・・・・・・・・・・・・

 

一番 嬉しかった事は 一日の中で 自由にギターを弾ける時間が 増えたことでした。

 

「華」 に勤務しているころは、 朝8時ころ起きて 身支度をして 9時頃 家を出ます。

夕方6時に 仕事が終わり 通常は、中番の人に 食事を作ってもらって それを食べて

うちに帰るのが 7時半か8時頃でした。

それから、深夜1時くらいまでが 自由になる時間でした。

一応 5時間 あるわけですが 5時間全部 練習に使えるわけでもなく 

4時間前後だったでしょうか。

 

それにくらべて スコッチクラブでの仕事は 家を 夕方の5時半頃出て 11時半ころ帰宅します。

つまり 朝 8時頃起きて 夕方5時ころまで 自由な時間が 9時間に 増えました。

この9時間に増えた事が 僕には 一番 嬉しかったと感じたと 記憶しています。

 

何せ 高柳さんの レッスンを 受けると言う事が 僕の生活の 全てだったからです。

 

 

 

 

さあ 夕方 5時になりました。

スコッチクラブに 出勤です。

 

お店に 6時少し前くらいに着き 裏口から 「おはようございます」 と

元気に挨拶をして 控え室に入ろうとしたら、 

何と 目の前で 数人の ホステスさんたちが 着替えているでは ありませんか!

 

上半身が露出されているのを見て 顔を 真っ赤にして 下を向いて もじもじ していると

中の方から 「あら、きのうから はいった 坊やね。 はいってらっしゃい」 という声が

かかりました。

僕は 下を向きながら 小走りに バンドの控え室まで 行きました。

 

僕にも このような 純情な時代が あったことを 今、懐かしく 思い返しています・・・・・・・・

 

 

控え室には まだ誰もいなくて 僕は 一人でした。

歌謡コーラスバンドは ユニホームが 揃っていて 普通 白の上下のスーツとか

黄色、ブルー、紫とか こういう 派手目の ものでした。

ミッキー宮崎さんのバンドも 白の上下のスーツでした。

バンマスが 人数分のスーツを 揃えておく というのが 普通のようでした。

僕は 前任者が着ていた 白の スーツに着替えて ギターを出して チューニングをして

皆さんを 待ちました。

 

しばらくすると メンバーが 来たので

僕は「おはよーございまーす!」 と元気に挨拶をしました。

 

「おはよう・・・・・・・」

 

 

 

こうやって 2日目が 始まりました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

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2012年

3月

22日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 20

極度の緊張と 興奮のうちに 1回目のステージが 終わりました。

 

弾けないところは ミッキー宮崎さんが 「あ、そこは 僕が弾くからいいよ」

と 優しく 言ってくれました・・・・・

 

ステージが終わって バンドの皆さんは 喫茶店にお茶を飲みに行くようでした。

僕は メインのジャズバンドの演奏を 聴きたいなと思いながらも 

バンマスのミッキー宮崎さんの 「宮崎くんも お茶飲みに 行こうよ、ご馳走するから」

という 一言に 「はい、ありがとうございます」 と 元気に 返事を返して

皆さんの 後を追い 喫茶店に行き コーヒーを 注文しました。

 

今、 終えたばかりの ステージの緊張が 開放されていくみたいな気がして 

喫茶店の雰囲気や コーヒーの味が 体じゅうに 染みこんでいきました。

 

2回目、 3回目の ステージも 同じような感じで 進行して行きます。

 

休憩時間のたびに メインのジャズバンド、 テナーの人が リーダーで、 道井さんという人でした。

生の ジャズバンドを 見るのは ものすごく 久しぶりで 初めてといってもいいくらいで

『かっこいいな~~~~~! 僕も早く こっちのバンドで 弾きたいな~』 と 感じました。

 

スコッチクラブの店内は 豪華絢爛で 僕が今まで 見た事も 聞いた事もないような ものでした。

 

あっという間に 4回目の ステージが終わり 皆さんは 慣れた手つきで  

それぞれの楽器を片付けて 「おつかれさま~~」 と言って 帰っていきます。

 

一人 取り残された 僕は ゆっくりと ギターをしまい そのまま そこに座って 

メインのバンドの演奏を 終わりまで 聴いていました。

 

演奏が 終わって 道井さんが 「ジャズが好きなの?」 と 声を掛けてくれました。

「はい、大好きです!」

「あ、そう・・・がんばってね」 と言って サックスを 片付けはじめました。

 

 

歌謡コーラスバンドのギターが 自分のステージが終わっても 

帰らないで ジャズの演奏を 一生懸命 聴くなんてことは 非常に 珍しいようでした。

 

道井さんたちも 帰り支度が 整い「駅まで一緒に行こうか?」 と 声をかけてくれて 

新宿駅まで 歩きました。

 

 

 

このようにして 極度の緊張と驚きと 大いなる希望と勇気を感じて 1日目が終わりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

21日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 19

大島 信ちゃんが 「来月から うちのバンドに おいでよ」 と 言ってくれて

そして、 『華』 の 皆さんが 盛大に 送別会をしてくれて

プロの道へ 送り出してくれました。

 

信ちゃんは、 僕のギターを 一度も聴いたことはないのですが

自分のバンドに 誘ってくれたのは、 

僕が 高柳 昌行さんに 習っている という理由からだったようです。

 

 

 

 

何月だったかは 忘れましたが 〇月1日から 仕事が はじまりました。

 

『華』 での 月給は 3万円そこそこ でしたが 

そのバンドの 月給は 1,5倍の 4万5千円でした。

 

『これからは 毎日 好きなギターを 好きなだけ 弾いて そして お金も 4万5千円も もらえる!

なんて いい 話なんだ!! 大島さん アリガトウ・・・・』  と 心の中で 思いました。

 

 

 

 

 

新宿の 名門クラブ 『スコッチ クラブ

ここが 僕の 初めての ギターの仕事場でした。

 

信ちゃんたちの バンドは リードボーカル、 キーボード、 ベース、 ドラム それに 僕。

5人編成の 歌謡コーラスバンド でした。

 

もう一組 メインの バンドがあり、

テナーサックス、 ピアノ、 ウッドベース、 ドラム の

所謂 ジャズの ワンホーン カルテットでした。

 

スコッチクラブ は 当時では珍しく 毎週 日曜日はお休みの 最高級クラブでした。

 

 

信ちゃんたちの バンドのリーダーは 

冗談かと思うでしょうが ミッキー宮崎さん という人で

キーボードを 担当していました。

日頃は スチールギターを 弾いているみたいで ハワイアンミュージック 出身のようでした。

キーボードも 一生懸命 練習して 何とか弾いている という感じだったのかも しれません。

 

 

信ちゃんが ミッキーさんに 紹介してくれました。

「こちらが 高柳さんの お弟子さんの 宮崎くんです。

そして こちらが ミッキー宮崎さんです。」

 

僕は 緊張しながらも 「きょうから 宜しく お願いします」 と 頭を 深々と 下げました。

 

ミッキーさんが 軽く 言いました。

 

「頼みますよ・・・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

19日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 18

純喫茶の「華」で 月曜日を除く 毎日 朝10時から6時まで 早番として 働いていました。

 

夕方6時から 深夜3時くらいまで、 中番、 遅番 と言われている人達が いました。

オーナーは とても 美しい女性で 年のころ 44,5歳。

所謂 芸能人みたいな 人でした。

週に 1度くらいしか お店には出て来ません。

だから 従業員は 気楽に ある意味 適当に 働いていたようでした。

 

僕は、 お客さんの少ない この 「華」 を何とか 盛り上げようと思って

色々 アイディアを めぐらせていました。

 

『あ、そうだ! モーニングサービスに 何か 変わったことをしよう・・・』 と思いつき

『トースト、ゆで卵のほかに 1品 つけよう・・・』

 

『季節ごとの フレッシュジュースなんか どうかな?』

 

りんごから はじめてみました。

りんご、氷、水、砂糖を ミキサーに入れ 攪拌します。

それぞれの バランスを試行錯誤しながら、テストします。

テストのたびに いわゆる ウェイトレスさんというんですか? 彼女にも 飲ませて

批評を してもらい  何回目かの 試作品で

「宮崎くん!おいしいわ!!」 と 言いました。

 

「よし!これで 行こう・・・・・」

 

モーニングサービスに フレッシュジュースを 小さいグラスに 1杯、つけてみました。

 

僕の仕事の量が増えて 大変だったのですが お客さんの反応は 上々でした。

 

そのほかに アイスコーヒーの作り方を 、「コーヒー専科」という本を 買ってきて 

自分なりに勉強して 得た結論は

先ず、冷たくなくてはいけない。

と、いうことでした。

 

そういう色々な 僕なりの 努力が 実を結び 早番の売り上げが 

前任者の時の倍以上になり ママも 大いに 喜んでくれていました。

 

「宮崎くんが 来月から 夢がかなって プロの ギタリストになるんだから 

盛大な 送別会を してあげましょう!」

 

早番、中番、遅番、ママと 総勢 15,6人くらいの 人達が 祝ってくれました。

 

「宮崎くん おめでとう!! がんばってね・・・・・・・」

パチパチパチパチ・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

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2012年

3月

17日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 17

習い始めてから 1年くらい 経ったころでしょうか。

生活費を稼ぐ為に 働いていた 高円寺の 喫茶店 「華」 で 若干の変化がありました。

 

月曜日を除く 毎日、 雨が降ろうが 風が吹こうが 雪が降ろうが 槍が降ろうが 

鉄砲玉が飛んで来ようが 朝9時半、 自分で鍵を開けて 店に はいります。

 

先ず 大きなヤカンに お湯を 沸かします。

そして コーヒー豆を500グラム、ネルのこし袋に入れて お湯を回しながら 少しずつ入れて

コーヒーをたてます。

当時は ドリップ式で 豆 10グラムが 一杯分 というのが 主流でした。

ですから 50人分なわけですが、利鞘を稼ぐために 500グラムで 54,5杯分 作っていました。

 

コーヒーを点てているときの香りが 「華」の店いっぱいに 広がって とてもいい感じです。

 

そして次に モーニングサービスに出す トーストを  20人分くらい焼いて

それにあわせて ゆで卵 を 茹でます。

 

それらの 準備を済ませると 10時くらいになります。

さあ 開店です。

 

いつのころからか 毎日 10時10分くらいに 決まって来るお客さんが いました。

 

お店の中は 4人がけの ボックス席が 10個くらい 整然と置かれてあり

カウンターの前には 5、6人が座れる 椅子がありました。

 

普通、お客さんは ボックス席の方に座るのですが その人は 

どういうわけか カウンターに座ります。

つまり 僕の 目の前に 座るわけです。

いつも一人で来るから きっと 話し相手が 欲しかったんでしょうね。

 

毎日 色々 話しているうちに 

その人の 名前は 大島信ちゃんで、年のころは 27、8歳。

プロのバンドの ドラマーだということが わかりました。

 

当時 バンドマンは 朝起きると 先ず 近くの 喫茶店で コーヒーを飲み 目を覚ます、 という人が

多かったのかもしれません。

 

何せ 今から 40年以上も前ですから 現在みたいに 

手軽に 家庭で コーヒーを点てるという習慣が あまり一般的では ありませんでした。

 

 

 

 

信ちゃんが 通い始めてから 2、3ヶ月 経ったある日

 

 

「宮崎くん、 うちのバンドのギターが 今月で やめるんだけど 来月から うちのバンドに来ない?」

 

 

 

 

 

「ええっ!!ほんとー?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

16日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 16

高柳さんのレッスンに通う前、ぼくは

東小金井にある 法政大学工学部土木科の学生でした。

 

受験勉強を一生懸命やり なんとか ぶらさがるようにして 受かったのでしょう。

 

定員50名というフレコミで入学したのですが、

登校してみると、200人くらい学生がいました。

一次補欠、二次補欠、それに 留年生、その数 200余名に膨れ上がっているわけです。

 

夕張の父親が 市役所の土木関係の仕事をしていたこともあって 

なぁんとなく選んだ大学の科でした。

 

定員50名とはうらはらに 膨れ上がった生徒数、私立大学の営利主義の一端を感じて

大学で学ぶと言う 意欲が失われていくのを 止める事ができませんでした。

 

毎月 親元から 仕送りしてもらっていたので 食べる心配はいりません。

それに 親元を離れての 一人暮らし。

糸の切れた 凧みたいに ふわふわふわふわしているような状態の 日々でした。

 

昼頃 起きて 学校には行くものの ろくに授業にも参加せず

マージャンをしたり ビリヤードに興じたり 友達と ボーリングに行ったり・・・・・・

 

夕方近く 所属していた 軽音楽部の部室に行き 適当にギターを弾いているという毎日・・・・・

 

このような生活をしていた私が 

いきなり 中央公論、文芸春秋、音楽芸術の本の内容について話せ と言われても 

非常に 難しいのでした。

 

四週目に行われる 討論会は 殆ど 高柳さんの 独演状態。

たまに いつも決まった人が 少し 自分の意見を言う、 という程度のものでした。

 

 

初めはそういう状態でも 月日を重ねるごとに 少しずつ 成長して行くものなのですね。

 

習い始めてから 3,4年も経つと 僕も 自分なりの考え、意見を 言えるようになっていました。

 

高柳さんに 教育されたと いうことなのでしょう。 

まさしく ‘音楽教育は 人間教育’ という 高柳昌行さんの モットーの 結果です。

 

その点は 僕は 今でも そう 思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

15日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 15

四谷 若葉町の 先生の自宅でのレッスンは

月曜日組と 火曜日組にわかれていて それぞれに 15,6人くらい いたようでした。

 

第4週目の月曜日に 2時間くらい、 月曜日組と 火曜日組が 前後して

本の読み合わせ 討論会を行っていたように 記憶しています。

 

 

 

僕は 月曜日組でした。 

一緒に 習っていた人達の中に 

オーバードオーナーの 藤井さん。

高橋ゲタ夫さんの ローライダースで やっている ジョージ(平沢くん)とか

シャンソン界の大御所ギタリスト 今井満さんとか

向井くん 大友くん 黒田さん 松宮くん みくりやくん・・・・・・・・・・

みんな 懐かしい ある意味 戦友と呼べる人達です。

 

 

あ、そうそう 一人 大物を忘れていました。

僕が習い始めてから、2,3年経ったころ なんと あの渡辺香津美さんが 

しかも 僕の すぐ前の時間帯に 習いに来ていました。

当時 渡辺さんは 17,8歳で 僕が22,3歳の頃でした。

 

彼は 非常に 礼儀正しくて 先生の部屋を 退出して帰るとき

必ず僕に 「宮崎さん お先に失礼します。」 と挨拶をして行きました。

 

若いときから、そういう 礼儀正しさを備えていたからこそ、

その後 日本を代表する ギタリストに 育っていったのかも知れません。

 

それから 一度も会った事は無い 火曜日組の中に

先生が よく口にしていた 名前の人達がいます。

 

一人は 2大フュージョンバンドのひとつ、‘スクエアー’のギタリスト 安藤さん。

もう一人は 広木光一さん。

そのお二人は あの高柳さんが いつも 口にしていただけあって 

今や、 おしもおされぬ 日本の 大物ギタリストです。

 

 

『これらの人達が 若い青春時代を 共に高柳昌行さんを中心にして 生きていたんだなあ』 

と考えると 妙に懐かしく、感慨深いものがあります。

 

 

 

さて、討論会の本の読み合わせですが、

題材は、 先生が 月刊誌や雑誌等の中から 抜粋して 指定します。

 

大学生の頃は ちゃらちゃら遊んでばかりいたので 隔世の感がありました。

中央公論、音楽芸術、音楽の友、文芸春秋 等々・・・・・・

結構 硬い本が 多いでしょ。

 

 

 

 

 

今から考えると あの頃が そういう教養を学ぶと言う点において 

人生の中で 一番 勉強した時かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

14日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 14

高柳 昌行さんのレッスンは 月に4回でした。

毎週月曜日。

1周、2週、3週が 実技で 

4週目は なんと、月曜日組が 一同に会して 本の読み合わせ会。

それについての討論会を 2時間くらいにわたって やります。

 

どうです?変わってるでしょう・・・・・

 

なんてったって 日本ジャズ界の鬼才、孤高のギタリストですから。

 

そして もっと 変わっているのは 毎週 レッスンの時に 作文提出を 義務づけられていたのです。

1週間の中で 自分が一番 強く感じた事を 400字詰原稿用紙1枚に 纏めるのです。

 

高柳さんの考えは 『音楽教育というものは 技術だけじゃなくて、

それ以上に 人間教育が 重要である』 というものでした。

だから、作文提出と 月1度の本の読み合わせと それについての討論会なのです。

 

僕にとって 高柳 昌行さんは 最初は 町のギター教室の先生でしたが

途中からは 日本を代表するジャズギタリストに なっていました。

先生の言う事は 絶対です。

 

作文も一生懸命 書きました。

『自分の考えを 400字に纏めると言う作業は 

ジャズのアドリブのアイディア や構成を まとめる時に必要だ』 との 先生の 考えでした。

 

 

今あれから 色々な 経験をしてみると 

やはり 高柳 昌行さんの生き方、そしてレッスンの方法は 特異と言わざるを得ません。

 

 

 

しかし 21歳の頃の 僕は 

今ほど 経験が無かった事もありますが、殆ど 盲目的に 先生に ついて行きました。

 

 

あの頃の 僕にとって 高柳さんの存在は 絶対的なものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

13日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 13

さて、

普通 人から物を教えてもらうという形態について 大雑把に 考えてみると 

能動型と 受動型に分けることが できるかな? と思います。

 

多くのレッスンは 受動型で、 

先生が直接手本を見せて それを 真似るように 学んで行くように 思われます。

 

高柳昌行さんの 場合は 全くそれとは 異なるスタイルを とっていました。

 

とにかく 自分が 能動的に 動かない限りは 先には 進まないし 進めないのです。

教則本を 3冊 やりましたが それぞれに 難所 という箇所があり

1冊目の教則本の 前半の終わりくらいに それがありました。

 

僕の場合は 習い始めて 1年経ったくらいの頃です。

 

ロ長調のスケールです。

ジャズ的に言うと Bのスケール。

 

Bの音はギターの1弦の 19フレットになります。

 

今の若い人が弾いている ソリッドギターなら 19フレットなど 何でもないのかもしれませんが

クラシックギター(ガット)で 19フレットの B の音を 小指で しかも 指を立てて

綺麗に 音を出すことは 非常に 難しいことでした。

 

 

案の定 高柳さんは 容赦しません。

19フレットの B の音が 出せないだけで 「また、来週」 と 厳しい声で 言います。

 

僕は やっとの思いで 3週間くらいかけて 其の箇所を 通過できたのですが

その難所を 乗り越える事ができなくて 自分から やめていく人が 3分の1 くらいは

いたでしょう。

 

 

 

 

後になって 考えてみると、

レッスンの形態は 能動型 と 受動型 と 両方 揃っているのが ベストだと思いますが・・・・・

 

 

 

 

あのくらい 厳しくて 良かったのかも しれません。

 

 

 

 

 

 

 

それにしても あの ロ長調は 厳しかった・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

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2012年

3月

12日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 12

あれから 家にある スィングジャーナルを 注意深く 読みました。

 

今の若い方には なじみが薄いかもしれませんが、

読者の人気投票コーナーというのがあって 

高柳昌行さんは 長年にわたって 日本ジャズギター界の スーパースターだった沢田駿吾さんと

1位、2位を 分け合うという人なのでした。

 

日本ジャスギター界での 高柳昌行さんは 

鬼才とか 孤高の人とか、 

とにかく人気があり 知性的で 鬼のような 怖い人・・・・

という風に 捉えられているようでした。 

 

 

『これは大変だ・・

来週から 大変だぞ!

今まで 軽い返事をして 失礼が無かっただろうか・・・・』

色々 反省してみました。

 

最終的には あの電話面接に 受かったんだから まあいいんだろうな・・・・・・・と、

自分で自分を納得させました。

 

 

 

さて、次のレッスンの日が来ました。

 

 

「おはようございまーす!」

 

「おう 上がれ」

 

といつものように 先生は言いますが 僕にはその 「おう 上がれ」という 響きが

いつもと全然違って聞こえて 

本当に上がっていいものかどうか、迷っていました。

すると先生は 玄関まで出てきて 「おう 宮崎 どうした?上がれ!」

といわれて ハッと我に帰り 「ハイ!」と言って 部屋に はいりました。

先生は「どうしたんだ?宮崎。いつもと違うなぁ。」

 

僕はレコード屋でレコードを探しているとき たまたま 先生のレコードを見つけ

家に帰って よく読んでみたら・・・という先週の出来事を詳しく話しました。

すると 高柳さんは 笑って 

「オレが 町のギター教室の先生か! ハハハハハハハ・・・

お前も 変わったやつだなあ。」 と言って 何事もなかったかのように

「さあレッスンやるぞ」と、

いつもの雰囲気に戻りました。

 

それからは 一言一言を 聞き漏らすまいと 先生の言葉に

全神経を集中させるようになりました。

 

 

 

当時の僕にとっては 毎週月曜日、 高柳さんの レッスンが 人生の全てでした。

 

 

 

 

 

 

 

懐かしく 思い出します・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

10日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 11

玖島 隆明さんの 教則本は、 初心者にとって 非常にすぐれた物でした。

セゴビアの 運指による 12の調にわたる スケール。

それについての 6つのバリエイション。

 

そして クロマティック スケールの 多岐にわたる バリエイション。

教則本の 大部分が これらのことで 占められている 内容の濃い物でした。

 

確か、 僕は この 教則本を 上げるのに 2年かかったように 記憶しています。

 

この教則本の スケールを 仕あげるについて 同時に 

左手の正しいフォーム、 右手の正しい形も 確立するように 厳しく 毎回 指摘されます。

 

ちなみに ある日の 先生の レポートを 再現してみましょう。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

☆左指のフォームに注意~~フレットに平行する、斜めにならないようにする。

 

☆左指の 押弦場所が 不確定~~テンポを落として 正確な場所を押さえる。

       フレットの真横に左指をセットする。  特に 4指~3指 低ポジションで・・・・・

       6ポジション以下で4指3指を 特に 訓練する。

 

☆親指は ネックの中央より 上に出さない。

 

☆左手の指の つけねの力を抜く。 やわらかく 丸みを帯びた フォームを作る。

 

☆時間を掛けて ゆっくり やる。  鏡を見て 直していくこと。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

とまあ こんな感じに 非常に 細かく 注意、指摘されます。

 

そういう日々が 続き、  習い始めて 半年が過ぎた頃

少しずつ ジャズにも 興味を持ちはじめ

レコードを買いに 店に行きました。

 

ぱらぱらぱらと何気なく レコードを探しているうちに

ジャケット写真に 見たような顔が・・・・・・・・・・・・・・・アレ????

似てるなあ?

 

興味を引かれて タイトルを見てみると

‘ プロフィール オブ ジョジョ 

そして ライナー ノーツを読んでいくと 高柳 昌行 っていう名前が 何回か出てきます。

 

『あれ? おんなじ 名前の人もいるもんだなあ・・・・・

僕が 習っている ギター教室の先生じゃ ないだろうなあ??

とりあえず 買って、帰って家で ゆっくり 見てみよう。』

 

と 嘘ではなく 本当に そう思いました。

僕は そのくらい ジャズに 疎かったのです。

 

 

家に帰って 中身をジックリ読んでみると 僕の習っている 高柳 昌行さんって人は

このレコードの 中身の人 そのものでした。

 

非常に驚きました。

 

 

『 どうする??? あのまあるく 小太りの ギョロっとした目の あの おじさんが・・・・・』

 

 

それから家にある ジャズ関係の雑誌を 注意深く くまなく 読んでみました。

すると あちこちに 高柳昌行 高柳昌行 高柳 昌行 と 

出てくるではありませんか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  

 

 

 

 

 

 

ああ、あの おじさんは こんなに 有名な 人だったんだ!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

09日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 10

奥の方から 初老の紳士が こざっぱりした身なりで 出てきました。

「はいはい どなたですか?」

『高柳昌行さんのところで ギターを習っている ミヤザキといいます』と 言おうとしたのですが、

高柳・・・といったところで

 

 

「あ~あ~わかりましたよ。教則本ですね。

どうもご苦労様です。

かわいいねぇ。 

ギター 一生懸命 練習しているんですか?」  と言って 僕の言葉を さえぎりました。

 

と、いうことは 『僕の前に 何人も 教則本を買いに来ているんだな。』 と思い 

妙な安心感を 覚えました。

 

 

今になって 思うのですが、玖島さんと 高柳さんは 本物だけが知り得る 

深い友情で 結ばれていたのかもしれません。

 

玖島さんの立場から考えれば 相当嬉しい事だったに 違いありません。

何せ 自分が書いた 教則本を 人数が少ないとはいえ 遠くから 買い求めに来る・・・・

 

しかも それが 皆      若くて    利巧そうで   ハンサムで    背が高くて  

スタイルが良くて   イケメンで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

ちょっと 脱線しましたが 

 

そういう思いが 玖島さんの 「はいはいわかりましたよ」 という

優しい物言いの はしはしに 溢れているのを、

多感な 宮崎青年は 見逃しませんでした。・・・・・・・・・・・・・・・   と、いうのは ウソです。

今だから わかるのです。

 

玖島さんは 僕にはとても 優しく接してくれたように 思います。

 

 

 

 

さて、手に入れた教則本を 大事に小脇に抱え 地下鉄に乗り 荻窪の自分の家まで急ぎました。

 

 

家に着き 机に座り 教則本を開いて じっとみつめて 

よし! 今日からこれを やるぞ!!

と思うと 僕はプロのギタリストになるんだ!! という想いが 

またもや 強烈に湧き上がって来ました・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

続く

 

 

 

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2012年

3月

08日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 9

五反田の駅に降り立って 先生にもらったメモ用紙に 記された通りに 地下鉄に 乗りました。

五反田に行くのも 初めてだったし まして 地下鉄に乗った経験も 

あまりなかったので なにやら すごい 大冒険をしているような 気分でした。

 

行き先の 最終地点は 玖島ギター研究所・・・・

 

あ、あった! きっと この家だな。

 

静寂の中に 落ち着きを見せた 一軒家があり、

大きめの 縦長の表札に

‘玖島ギター研究所’と確かに書いてあります。

 

『研究所 なんて 随分 大げさな名前だなぁ・・・

ギターなんて 楽しく弾ければ いいんじゃないの?』 と 

軽く 批判めいた気持ちが湧いたのを 覚えています。

 

しかし そうはいっても 教則本を買って帰らないと レッスンが先に進まないってことも

その青年は 解かっていました。

 

青年は 思っていました。

地下鉄に乗って来るあいだ・・・・・

『普通、教則本ってのは ヤマハかなんかに行って 買ってくるものじゃないの?

なんで、わざわざ 本人の家まで 行かなきゃいけないんだぁ?・・・・・』 と。

 

ずぅっと後になって 解かったのですが、

玖島隆明さんの教則本は 初心者が スケールやクロマチックを学ぶのに 

非常にすぐれた本でした。

しかしあまり 売れなかったみたいで ヤマハとか 

そういう大きな販売店では 取り扱われて いないようでした。

 

往々にして 本物って言う物は そういう物なのです・・・・・

 

 

 

 

 

表札の前に立って 玄関の開き戸を横にすべらせて 一歩 足を踏み入れて

「コンニチハー!」

と大きな声で 挨拶をしました・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

07日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 8

いくら先生から 教えられたとは言っても そう簡単に 

自己流でギターを弾いて来た 指の癖というものは 直るものではありません。

 

そもそも 高校生で 初めてギターを手にした時 

左手のフォームとか 右手のピッキングが どのような形が正しくて 合理的なのか なんて

考えもしなかったし・・・・・

 

今から思うと 何事も 少なくとも最初の基本の形ぐらいは 

正しい先生について教わる ということは 必要でしょう、そう思います・・・・・ 

 

 

さて、高柳 昌行さんのレッスンは (最初の頃に書いたように) 

左手 右手の正しい形、合理的な形、を説明し それを 生徒は 家に持ち帰り 

一週間かけて 訓練する。

そしてレッスンで その結果と成果を 検証する ということの繰り返しになります。

だから、一週間経って 成果が無ければ また 同じ事を 一週間やらなければなりません。

それでも成果が無ければ また一週間 同じ事を しなければなりません。

この辺は 徹底していました。

非常に 厳しい人でした。

 

ゆえに 自分が練習しないと 一つも先に進めない・・・・・・・・という事に なるのです。

たかが 6、7年と言っても 自己流でギターを弾いて来た ツケは 相当大きな物でした。

僕の場合は 左手の小指が 跳ね上がると言う この癖が なかなか取れませんでした。

それでも 4ヶ月くらいかけて なんとか 超初心者的な 左手と右手の訓練も終わり

ある日の レッスンの時 「来週から 教則本にはいる。

ギター基礎技巧教本 玖島隆明著 増刷改訂版 350円

を買ってくるように。」

と言われました。

時は 1970年1月4日のことです。

 

例によって

 

『玖島ギター研究所  電話775-1234

 五反田(地下鉄ー西馬込行)-3つ目 馬込下車 

        一番ウシロ側

改札出て 右の階段昇る~~第二京浜国道~~出て左を見ると信号あり、その側の坂を上る』

 

と書いたメモ用紙を渡されました・・・・・・・

 

 

 

その時は ひとつの過程を やり終えた喜びと これからはじまる 

新しい教則本に対する 不安と期待とで 小さな胸が 張り裂けそうでした。

僕は プロのギタリストになるんだ!

 

 

 

 

 

その熱い想いを 今でも 鮮明に 思い返すことが出来ます。

 

 

 

 

続く・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

05日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 7

一週間が過ぎました。

 

自分なりに 一生懸命練習したつもりで 

意気揚々と ‘町のギター教室’へ出かけていきました。

 

2週目の先生の反応は こうでした。

「まあ 大体いいが 手首の振り方がよくない。

手首は縦に上下するように。

斜めになってはいけない。

そして ピックの持ち方だが 右手のピックをつまんでいる指と 他の 中、薬、小指とは

やや 間をあける訓練をしろ。

そしてピッキングだが 常にダウンアップ ダウンアップと正確に繰り返す事。

右手のスナップを強くする為に 今から教える体操を毎日するように・・・・」

 

その体操とは こうでした。

両手を前に伸ばして、手のひらを上に向けて 結んで開いてを20回。

手のひらを下に向けて 同じように 20回。

これを 3往復くらいやる・・・・・

 

 

 

何故 ここまで正確に 先生の言ったことを 覚えているのか 不思議でしょう?

しかも42年も 前のことを。

 

実は 先生は レッスンのときの 注意点を B5サイズのレポート用紙に

非常に綺麗で達筆な字で 書いて 渡してくれて いたのです。

僕は その注意点を 修正すべく 次の一週間を生きる、という生活でした。

 

何とそのレポート用紙が 奇跡的に 残っているのです。

昨日 確かあったはずだと探して やっと見つけました。

随分 時間が かかりましたが、

このブログの連載を ある程度は 正確なものに しようと思い・・・・

 

その探した時間を ギターの練習に当てていたとしたら 今の倍くらいは巧くなっているのに・・・・

 

とまあ そんなことはないのですが。

 

 

 

来週からは 左手のためにクロマチック スケール

 

左手   人  中  薬  小

      1   2  3   4

 

先ず 6弦を 1フレットから 1.2.3.4と 半音づつ 押さえます。

次に 5フレットから 1.2.3.4

9フレットから 1.2.3.4  と押さえます。

その時に 2の指が 指板と直角になるよう。

そして指は フレットのすぐそばを 押さえる。

押弦は 指頭で する。

 

 

というようなことを 教えられ 「右手の フォームが崩れないように 左手のフォームも崩れないように

両手に 神経を 配るように。」

 

そして 先生は 続けて 言いました。

「これらの事が 正確に やれているかどうか、 幅広の横長の 鏡を目の前に立てて

自分のフォームを映し 確認しながら 練習するように。」

 

 

 

 

 

一応 6年間 自分なりに エレキギターを弾いて 色々な 練習をしてきたつもりでいたのですが、

今 先生の言っている事は 全く 未知の体験でした。

 

こんな風に 最初から 正確に ギターを 練習する事と 

プロのギタリストになるという思いとが 完全に一致して 非常に勇気が湧いてきました。 

 

そう思うと 早く家に帰って 練習したいという思いで 先生の部屋を そそくさと あとにし

四谷から 自分のアパートのある荻窪まで急ぎました・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・

 

 

 

 

 

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2012年

3月

04日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 6

「こんにちは~」

「おぅ!上がれ」

「お邪魔しま~す」

と言って 部屋に 通されました。

 

奥に机があり その上の棚には レコードやら、譜面らしき物などが ファイルされて

ぎっしり並べられてあったように記憶しています。

 

先生は机の前の椅子に座り その前には 譜面台が置かれてあり 

それを挟んで 向かい合わせに 僕も椅子に座りました。

 

前もって レッスンには クラシックギター(ガットギター)を使うように言われていて

僕はお金も無かったので 質屋さんに行って 安いガットギターを手に入れていました。

 

高校1年から 20歳まで エレキギターを弾いていて、

自分で 少しは ギターを弾けるつもりではいたのですが 

ガットギターを手にしたときは なんじゃコレー と 閉口しました。

 

エレキギターと較べると 感触やアクションが全然違うのです。

しかも 安物だから 音も あまり良くないのです。

 

さて、先生の部屋に行き レッスンを受けるときは 

先生のガットギターを使ってよい事になっていました。

 

それを手にして ポロンと弾いた時 『あぁ なんていい音なんだ、しかも 僕のより 弾き易い。』

そう思っている間もなく 先生が 言いました。

 

「先ずピックの持ち方を 説明する」

 

僕は 心の中で 『ピックの持ち方くらい知ってますよ、もう 6年も7年も弾いてますから・・・・』

と思いましたが まあ 町のギター教室とはいえ、 一応 先生なのだから

説明を聞こうと思って 次の言葉を 待ちました。

 

「右手の中に 卵を 持つような感じで握る。

そして、そのままの形で 親指を少し上げて 人差し指の第一関節のあたりの上に ピックを乗せる。

親指をその上に そっと乗せ 手首を ギターの弦と平行になるように 曲げる。

弦に対して 直角に ピックを当て 右手の スナップだけで 上下に ストロークする。」

 

とまあ、このような説明が ありました。

 

そして実際にギターを持って 6弦を、タ、タ、タ、タ、タ、タ、タ、タ と 八分音符を8個 

規則正しく 上下に ダウンアップで ストロークします。

 

そして 次に 5弦を そして 4弦。さらに 3弦、2弦、1弦 と。

 

次に 8分音符を4個、そして 2個 、

次に 6弦と5弦を 1個づつ。

 

これらの事を テンポを指定されて 「そのテンポで出来るように家で練習してこい」 と言われました。

 

今から考えると こんな退屈な事を よく真剣に練習したもんだな と思うのですが

何せ、当時は 若干20歳で 右も左もわからない。 

しかし、プロのギタリストになるんだ! という 情熱だけが ギラギラ燃え盛っていたのです。

 

そして その道を 進むには 目の前の人の言う事を 素直に聞くしか 

方法はないと信じていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く・・・・・

 

 

 

 

 

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2012年

3月

03日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 5

「ピックの持ち方」

 

とまあ、とにかく 来月から 毎週月曜日に レッスンを受けることになりました。

20歳の僕は 無限に広がっているような 自分の人生に向かって 

小さな一歩を踏み出すような 想いでした。

 

田舎の両親に 自分は プロのギタリストになりたい・・・という想いを伝え 許しを乞いました。

そして、自分で決めた道を歩むのだから 

毎月送ってもらっていた 生活費等の仕送りも 自分から 断りました。

 

「明日から 生活費は自分で稼がなきゃいけないんだ。そう、働かなくちゃいけない。」

 

僕の選んだのは 喫茶店の店員の仕事でした。

 

高円寺駅から 裏道を抜け 早稲田通りに面した所にあった 

少し大きめの『華』という店でした。

 

朝10時から夜6時まで カウンターの中で コーヒーや紅茶、サンドゥイッチ、

スパゲッティー(ミートソースにナポリタン)や、チョコレートパフェ、プリンアラモード などを

作って お客さんに 出していました。

今から考えると 恐ろしい事だと 思いますが・・・・・・

 

お店には ホール係として まあ いわゆる、ウエイトレスというんですか? 

そういう人が一人いて 二人体制で 仕事をしていました。

 

よくある映画のストーリーのように その二人は 恋に落ちる・・・・・・

 

 

 

 

 

ということは     微塵も無く、  何せ 其の時の僕は まだ世の中の事は 右も左もわからない

純真無垢な (自分で言うのもどうかと思いますが) 青年でしたから。

しかも、夕張の田舎から出てきた・・・・・・ 

 

 

給料は 月3万円ちょっとだったように 記憶していますが。

とにかく 生活する体制は 整えたわけです。

 

 

そして第一回目の月曜日が来ました。

喜び勇んで 先生の家のドアを開けました。

 

 

 

 

 

続く・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

3月

01日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 4

緊張した気持ちで 四ッ谷駅の改札を出て、

メモに書き記したとおりに 四谷の町を進んでいきました。

 

たどり着いた先は 外階段のついた古いアパートでした。

 

その前で 立ち止まり この2階が 高柳さんっていう人の 家のはずだ・・・・・

自分の立っているところから 表札の文字までは見えなかったので 

その外階段をしのび足で 音を立てないように そぅっと 上がっていきました。

 

表札を見ると 確かに 高柳 昌行 と書いてあります。

その隣に 道子って書いてあった様に記憶しております。

 

何故かその時は また一度階段を降りて もとの場所に戻り 大きく深呼吸を一つして

よし!行くぞ! と自分に 言い聞かせ また外階段を昇って行きました。

 

インターホンを押しました。(?)

「おぅ 上がれ!」

背が小さめで ちょっと小太りで 丸顔で

目がギョロっとしているが どこか愛嬌のある人が 目の前に立っていました。

印象としては 優しそうな おじさん・・・・・

 

高柳さんが35歳 僕が20歳の 出会いでした。

 

「私は 弾いて見せてやることはできないが 

どのようにすれば ギターを合理的に弾く事ができるか、を知っている。

それを教えるが、それでも良ければ 来月から レッスンに来なさい。」

 

「はい、わかりました。」と言って 高柳さんのお宅を あとにしました。

 

 

後になって 先生から聞かされたのですが

最初の電話が 弟子にするかしないかのテストだったのです。

電話のかけ方、話し方、話す内容の確かさ 等々 チェックされていたのです。

 

「じゃぁ 先生 あの時 僕は 合格したのですね?」

「だから今 ここにいるんじゃないか 宮崎は・・・」

「不合格の場合はどうするんですか?」と訊くと

ガチャっと電話を切る仕草をしました。

へぇーーー厳しいなぁ・・・と思いました。

 

先生には 弟子が沢山いました。

先生との出会いの仕方は それぞれ 千差万別だったと思いますが

僕の場合は 電話でのテストでした・・・・・・・・・

 

 

 

『電話 面接』の項 終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

2月

29日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 3

「もしもし高柳さんのお宅でしょうか?宮崎といいますが高柳さんでしょうか?」

 

「はい。」

 

と、静かながらも 威圧感のある 低い声で 先方は言いました。

 

「土田さんのご紹介で ギターを習いたいと思って お電話しました。」

すると 予想外の答えが返って来ました。

 

「君の人生にとって ギターを弾くという事は どういう意味があるのですか?」

 

どういう意味があるかって急に言われたって そんなことは 考えてもいなかったし

何せ昨日まで 僕は、確固たる目的も持たないまま ちゃらちゃら 遊んでいた学生だったのです。

しかし 私もさるものひっかく者で、とっさに頭をフル回転させながら 言いました。

両親に 便箋20枚にわたって 書き連ねた内容を思い起こしながら・・・・

 

「自分のこれからの人生で 本当に 心底 打ち込めるものを 必死で探していました。

自分が好きなものは ご飯を食べるのも忘れるくらい のめりこめる物だと思います。

それが 僕にとっては ギターを弾くという事だと 気が付きました・・・・・・・・・」

 

と、まあ こういうような事を 答えたと思います。

 

すると 高柳さんは 

「君は すくなくとも 五年は習い続ける気持ちがあるのか?」

 

とりあえずハイと言わないと この場はまずいだろうなと思って

 

「ハイ」と、言ってしまいました。

 

すると高柳さんは

「よしわかった。明日 もう一度 電話しなさい。」

 

と言って 電話を切りました。

 

この時点では 高柳 昌行さんと言う人が どんな人か 僕は全く知りませんでした。

18歳で夕張から 東京に出てきて 

特別 することも無く遊んでいた学生で、 ジャズにも そんなに興味があったわけでもありません。

何せ 高校生のときは ベンチャーズ一本やりでしたから・・・・・・

 

次の日 電話をしました。

すると高柳さんが言いました。

 

「メモ用紙を用意しなさい。今から 家までの道順を言うから。

四谷駅の改札を出て右に行って真っ直ぐ行って 左に行って・・・・・・。

 

来週 月曜日 10時にきなさい。」

 

と言って 電話が 切れました。

 

非常に事務的でぶっきらぼうな感じがしたのですが、それに従うしか すべはありません。

後になって わかったのですが、

一度言って 理解できないレベルの人間は 相手にしたくないという 先生の想いがあったようです。

 

あっという間に その月曜日がやってきました。

緊張した気持ちで四谷駅の改札口を出ました・・・・・・・・・

 

 

続く・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

2月

28日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 2

電話 面接

 

1969年夏

僕は 確固たる目的も持てないで 日々を過ごしていた大学を辞め

プロのギタリストになる決心をしました。

 

大学を辞めるに当たって 生んでくれた両親に 許しを請うため 

便箋20枚くらいに 自分の考え 将来への希望などを書き連ねて郵送しました。

 

父と母は 僕を認めてくれて 許してくれました。

 

大きな恩を今でも忘れる事はありません。

 

 

そして プロのギタリストになるなら 誰かいい先生に習ったほうがいいということになり 

ある人を 紹介していただきました。

その人は プロのアルトサックス奏者の土田さんという方でした。

 

土田さんは プロミュージシャンの生き方、考え方などを話してくれました。

あるレコードを出してきて 其のレコードと同じように 吹いて見せてくれました。

びっくりしたことを 覚えています。

 

其の夜 土田さんの仕事場に連れて行ってもらい 演奏も聞かせていただきました。

物凄く 高級なホテルで 僕のような者は 入れないような雰囲気でした。

恐る恐る 土田さんのあとから 付いていきました。

相当に 緊張していたのでしょう。

其の時の出来事を何も思い出すことが出来ないのです。

 

今にして思えば 僕が さんざん慣れ親しんだ 東京プリンスホテルのラウンジでのお仕事でした。

 

途中でおいとましようとすると 土田さんは 小さなメモ用紙を手渡してくれました。

そこには 名前と電話番号が書かれていました。

 

高柳 昌行  123-4567      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「ここに電話してごらん。」

 

丁寧にお礼を述べて おいとまして 当時住んでいた 荻窪のアパートに帰りました。

 

 

翌日 123-4567へ電話しました。

「もしもし・・・・・」

「もしもし 高柳さんのお宅ですか?宮崎といいますが、高柳さんでしょうか?」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

続く・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

2月

27日

師匠・高柳 昌行さんとの思い出 

私にはギターの師匠が二人います。

一人目は 高柳 昌行さん

二人目は 潮先 郁男さん

どちらも 大切な先生です。

 

お人柄も 教え方も 正反対というか好対照というか・・・・

とても印象深い思い出です。

 

今回は 一人目の師匠 高柳 昌行さんとの思い出に絞って 連載して行こうと思っています。

 

時は 1969年。

僕が20歳の夏です。

 

何せ 40年以上前のことなので、事実誤認があるやもしれません。

その節は どうぞ 笑って許してやってください。

 

それでは 明日から・・・・・・

 

 

続く・・・・・・

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2012年

2月

26日

和解・15

マコ 「私 だれだか わかりますか?」

 

先輩 「わからないよ、どなたですか??」

 

マコ 「マコです」

 

先輩 「え!!! マコさん?・・・・・・・・よかったぁぁ・・・・」

 

マコ 「何度か電話しようと思ったんだけど ためらわれて・・・・・」

 

先輩 「僕も!・・・・・・」

 

マコ 「今度 以前のように 遊びに行ってもいいですか?」

 

先輩 「勿論だよ・・・・・」

 

マコ 「カポネに代わるね」

 

カポネ 「先輩 元気でした?」

 

先輩 「うん」

 

カポネ 「ごめんね・・・」

 

先輩 「いや 俺も悪かったんだよ・・」

 

カポネ 「懐かしくて 涙が出てきちゃったよ」

 

先輩 「うっ・・うっ・・・うっうっうっ・・・」

 

 

 

お互い 電話口で離れていても 

二人の涙によって 3年間のわだかまりが 溶けるように 消え去っていくのを感じました。

なんと言っても 先輩は 

僕のギターの師匠 ‘高柳昌行’の 同門の兄弟子で 苦労を共にした人なのです・・・・・

 

 

 

2012年2月7日1時37分

和解が成立した瞬間でした。

 

2月15日 Bフラットの帰り、いつものように オーバードに立ち寄りました。

懐かしい 顔 顔 ・・・・・

 

「やーよく来たね」

「はい、元気そうですね・・・」    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

終わり

 

 

PS  明日からは 私のギターの師匠‘高柳 昌行’との思い出を 連載する予定です。

 

 

 

 

 

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2012年

2月

25日

和解・14

何十年ぶりかで 切れたので 其の後は 大変でした。

マコもそんな私の姿を見たのは初めてで、

僕が 熊のように 狭い部屋の中を 行ったり来たりしていると 

隣の部屋からドアをちょっと開けて

目だけ出して 「お父さん こんにちは~~」とか言って 僕を笑わせようとします。

猫たちも珍しく三匹並んでにゃ~~にゃ~~にゃ~~と僕の機嫌をとろうとしています。

 

3,40分経ったころでしょうか?

やがて僕の怒りも収まり マコや猫たちに 「ごめんね。驚かせたね。もう大丈夫だよ・・・・」

 

 

 

それから2年くらいは その話題には触れないでいました。

しかし・・・・

其の後 先輩 どうしているかな・・Tちゃんは元気かなぁ・・・ 

と、マコと どちらからともなく 話題に上ることがありました。

猫たちも 先輩どうちてるかにゃぁ~~~にゃぁ~~~と言っているような気さえするのです。

 

赤坂BフラットでのPINKBONGOやテンダリーズの仕事の帰り、

青山のライブハウスBody&Soulの帰りなど

オーバードのすぐそばを通って帰ることが多く 

ふらっと 寄ってみようかな?

いや、ダメだ そういうわけには行かない・・・と自分を戒めたものでした。

 

 

 

先輩もきっともう怒ってないだろうね  と思えるようになり 

「マコ電話してごらんよ」と言える日が 来ました。

 

マコが電話すると、り~~~~んり~~~~ん

不在でした・・・・・・

また今度にしよう・・・

 

そういうことが何度かあった 2012年2月7日午後1時32分

り~~~んり~~~~ん

 

 

ガチャッ 「はい F井です。」

マコ 「もしもし わたし 誰かわかりますか?」

 

 

 

続く・・・・・

 

 

 

 

 

 

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2012年

2月

24日

和解・13

CD‘NO ADDED’が出来上がりました。 

 

今度は これを 僕たちが売らなければいけません。

結果的には 充分に採算が取れるくらいに売れ 

2枚目を作る資金も 貯まったようでした。

 

そして 2枚目‘STYLE JAZZ BAND’ を オーバードレーベルでリリースすることが出来ました。

STYLE JAZZ BAND はオーソドックスなジャズギターを 本格的なラテンのリズムで

演奏するという  オリジナリティー溢れるスタイルでした。

 

そしてオーバードレーベル3枚目として テンダリースの2枚目‘真知IZM’を制作しました。

沢山の一流ミュージシャンの力を借りました。

 

中島徹、高橋ゲタ夫、大儀見元、安藤弘、宮本大路、嘉本信一郎、コスマスカピッツァ・・・・・

 

皆さん 本当にありがとう!

 

真知IZMも出来上がって、数ヶ月過ぎたある日、

先輩と電話で 意見の衝突がありました。

先輩が「*+?%△◎×□*+?>¥#%&!」

僕が 切れました!!

「テメェ 馬鹿野郎コノゥ ふざけんじゃねぇ!先輩だと思って下手に・・・・・」

ガチャ!

 

 

 

続く

 

 

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2012年

2月

23日

和解・12

何の音だろう?

 

バンマスが言いました。

「冷蔵庫の音だよ」

皆で冷蔵庫の前に集まって耳を澄ませると 

業務用の大きな冷蔵庫だけあって 低いけれどしっかりとした音がしていました。

それから皆は お店の中央に戻って、他に物音がしないか 注意深く聴いてみると

なんとあなたまあ クーラーも音がするではありませんか!

Tちゃんが「録音する時は冷蔵庫とクーラーを止めましょう」

 

とこのような苦労があってCD ‘NO ADDED’は完成したのでした。

 

NO ADDED(無添加) というタイトルにはバンマスのこだわりが 入っているのです。

昨今、CDは ダビングしたり 編集したり 様々に作り変える事ができ

実際の音とはかけ離れた 作られた物が多く見受けられます。

バンマスいわく「このCDは全曲 同時録音で 何も足さない 何も引かない。だからNO ADDEDなんだよ」

「さすが先輩!いいこと言うなあ」

とこの説明に 僕たちも 納得がいきました。

 

ジャッケットは娘のUちゃんが作ってくれ、

ギターとバイオリン 二つの楽器が混ざり合っている様が

見事に表現されたデザインで素晴らしいと思いました。

 

僕たちにとって 一枚目のCDは このように 本当に手作り感のあるものでした。

 

そしてさらに2枚目のCD ‘CAPONE STYLE JAZZ BAND’に向けてライブは続きます・・・・・

 

 

続く・・・・・

 

 

 

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2012年

2月

22日

和解・11

毎週のように 日曜日 オーバードで 僕とマコ 先輩と奥さんのTちゃん 4人で 録音していました。

僕とマコは スタジオのようにセッティングされたマイクの前に座り 先輩は カウンターの端の

コンピューターの前に座り、Tちゃんは その中間くらいに位置し 中継の役をしていました。

「はい、行きます!」「3、2、ー  」・・・・と息詰まるような録音が始まります。

 

テンダリーズ二人の場合は 大部分、僕は伴奏に回ることが多いので 意外と気楽です。

よし!いいぞ!このまま マコ 頑張れ!

と、調子よく進んでいきます。

 

りん り~~~~ん りん り~~~~ん     ・・・・・・・   電話です。

張り詰めた室内の空気が一変します。

 

先輩たちが無言で 電話の回路を外しに行きます。

 

「さぁ またやろうか!」

「はい、じゃ行きましょう」

 

TAKE2 が始まります。

今度は順調に1曲録り終えました。

「さあ プレイバックして聴いてみよう!」

4人がコンピュータの前に 嬉しそうに集まります。

先輩がプレイバックのスタートボタンを押し間違えて、今の録音が消えてしまいました。

 

先輩「あれ、おかしいな、あれ?あれ?・・・」

 

マコが優しく言いました。

「もう一回やりましょ」

 

さあ気を取り直してTAKE3です。

 

録り終えてまたコンピュータの前に4人が集まります。

Tちゃんが、「バンマス~頼みますよ!」

 

先輩はオーバードの中では、バンマスと呼ばれているようでした。

お店の中で まさか おとーさんとか あなたとか 呼ぶわけにもいかないでしょうから、

長年の間に 自然に バンマスと呼ぶようになったのだろうなぁと微笑ましく感じたものでした。

 

僕たちも 「バンマス~ 今度はたのみますよぅ!」と言って 

その場の空気を明るいものにしようと努めました。

 

プレイバックが始まりました。

いい感じで録音されてます。「いいぞ~~~いいぞ~~~いいぞ~~~~」

途中まで来て Tちゃんが 「この音なに?・・・・・」

 

注意深く 聴いてみると 確かに 低周波のような音が聞こえます。

演奏している時は 全然気が付かなかったのに・・・・・・・

なんの音だろう?

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

2月

21日

和解・10

この音だったらCDになるぞ・・・

 

それから 先ず テンダリーズ二人だけのCDを作る事になりました。

オーバードは日曜日がお休みなので、僕とマコの休みの日曜日を選んで

毎週のように オーバードで録音する日々が続きました。

 

当時は 自費出版CD制作といって

誰もが自分でCDを作って売り込むというという事が流行っていたように思います。

 

自分でお金出して、CD作るなんて・・・

僕はそういうことが嫌いでした。

 

以前に‘那須高原’という名前のレストランで 請われてテンダリーズのコンサートをやっていました。

2,3年たったころのある日、オーナーが、

「TVアサヒがお店の取材に来るから、其の時いつものようにコンサートやってくれませんか?」

といわれて、

即座にお断りしました。

 

僕の考えは、料理の取材に来るのに そのついでに TVに映るなんて。

そんな恥ずかしい事!・・・・

音楽のプロなら 音楽番組でTVに出なくっちゃ!

 

那須高原のオーナーには最後まで理解してもらう事ができなくて以後疎遠になりました。

それでも構わないのです。

 

生きていく為には ある種の こだわりは必要だと思っています。

だから CDも自分でお金を出して作るなんて考えられなかったのです。

 

 

 

オーバードの先輩の申し出は 非常にありがたいものでした。

 

 

続く・・・・

 

 

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2012年

2月

20日

和解・9

大いなる盛り上がりの元に1回目のライブは無事に終了しました。

沢山来ていただいたお客様の ひとりひとりに 先輩たちと並んで感謝のご挨拶をして

さあ、これから お店のスタッフたちは 

幾つもの機材を 通常営業にむけて配置転換をしなければいけません。

ライブは11時ころ終わりましたが、お店の営業は朝の3時までなのです。

 

いわゆる普通のライブハウスとは違って

オーバードはれっきとした サパークラブなのです。

若いスタッフたちの働きで配置転換も終わり 

お店はすっかり元の顔に戻りました。

テンダリーズのメンバーたちも ひとり、 ふたりと帰り

夜のとばりも降り ひと時の静寂の時間が訪れました。シーーーーーーン

 

通常営業のお客様が途切れた時間に 先輩は待ちかねたように

「宮崎くん 今日の録音聴いてみる?」 と言いました。

僕はさほど興味は無かったのですが 「ええ聞いてみましょうかね」

と軽い返事をしたのを記憶しています。

 

先輩がPCのプレイバックのスイッチを押しました。

すると 全く僕にとっては意外でしたが とても素晴らしい音で録音されていました。

「うむ! これなら CDに出来るかもしれないな・・・」

 

僕はコンピュータについては全く解からないといっていいのに等しいくらいの知識しかないので

お店においてあるPCで録音した結果が このようなものになるとは 想像だにしていませんでした。

 

コンピュータについて知識が無いといえば

この文章だって、僕が書いているのではありません。

僕は 文章を考えるだけで キーボードを打っているのは マコなのですから。

今までの コラム 全部そうです。

すべて二人の共作なのです。

 

二人の共作といえば 以前 大路さんに こう言われた事がありました。

 

PINKBONGOのメンバー皆で 何かについて 話し合っている時に

「僕だって自分の考えだけじゃなくて、人の考えも聞いて参考にしてるよ・・」というと

大路さんは「だれに聞いてるの?」

というので「マコに聞いてるよ」というと

大路さんは「あんたたちは 二人でひとつじゃない」と無下に言ったことがありましたっけ・・・

 

 

 

この音だったら、CDになるぞ!

 

 

続く・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2012年

2月

18日

和解・8

先輩たちと朝まで盛り上がったあと

帰りの車の中で、僕は考えていました。

 

ライブで演奏するのはともかくとして 

CDを出すとなると音質にある程度気を使わなければいけないだろうから

あの店の録音では無理だろうな・・・・

でも あんなに喜んでくれたのだから ライブだけでも がんばろう・・・・と。

 

飛んで火にいる夏の虫というか すぐに オーバード の開店10周年記念の日が近づいてきました。

先輩が言いました「10周年記念ライブでテンダリーズをやろう!」

 

2004年9月4日 ”テンダリーズ4”の記念すべき初ライブです。

 

オーバードのスタッフたちも大変です。

チケットを作ったり、飲み物リストを作ったり・・・・

何よりも客席やステージの機材をすべて配置換えしなければいけません。

先輩やスタッフのKくん Yくん 娘のUちゃん、皆、一生懸命それぞれに動きまわっています。

 

カウンターの真ん中にTちゃんが作ってくれた 美味しそうな おにぎりと沢庵 ・・・・

本当に手作りのあたたかい雰囲気のライブでした。

 

その日のテンダリーズのメンバーは Vn・竹内真知/ Gui・宮崎カポネ信義

                        Bass・高橋ゲタオ/Per・大儀見元

 

そして一曲目が始まりました。

美しきロスマリンです。

♪タラララタッタラ~~~♪♪

 

美しきロスマリンといえば 私たちが結婚した時に

新婚旅行の費用欲しさに 死に物狂いで泣きながら練習した いわゆる いわくつきの曲なのです。

この曲を伴奏するたびに 僕は 楽しかった新婚旅行の思い出が懐かしく蘇ってくるのです。

 

新婚旅行といえば ひとつ 悲しいできごとがありました。

 

 

聞きたいですか??

 

 

続く

 

 

 

 

 

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2012年

2月

17日

和解・7

「何か一曲聞きたいなあ」とTちゃんが言いました。

 

その日は丁度、仕事場、レストラン‘ナカニユ’の帰りで 

ギターとヴァイオリンのデュオの演奏の余韻が残っていた事もあって

気軽に「いいですよ」という展開になりました。

 

僕はギターをいつも、マコのように 手元に持ち歩く習慣が無く 駐車した車の中に置いてありました。

 

オーバードにはギターが沢山おいてありましたので、其の中の一本をお借りして マコと演奏しました。

曲は‘美しきロスマリン’というクライスラー作曲の小品です。

 

反応は意外な物でした。

 

 

数十分前には、レストランのBGMとして弾いた曲が

今ここでは、素晴らしい大きな歓声と拍手を持って 歓迎されました。

僕たちもとても嬉しかったように記憶しています。

 

先輩とTちゃんは、「宮崎君のライブの一回目はマコさんとやってもらいましょうよ。

           そして CDも作りましょうよ」と大きな興奮を交えて言いました。

 

先輩の構想の中には ライブを重ねて行き そのライブを録音して いいのがあったら

ライブ録音として CDに残したい。

オーバードレーベルを立ち上げたい。

という物があったようでした。

 

その日は、そのような内容の話で盛り上がり 

先輩たちはビール、僕たちはパインジュースで乾杯を重ねました。

 

楽しい時間があっという間に過ぎ、気が付くと 朝の5時くらいになっていましたね。

本当に楽しい思い出の時間でした。

 

続く・・・・・

 

 

 

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2012年

2月

16日

和解・6

「実は今日来てもらったのはさぁ・・・・」という話の内容はこういうものでした。

お店のスタッフで作っているバンドで ライブをしたりコンサートをしたりする活動をしていたのですが、

もう一つ内容の濃いインパクトのあるライブをやりたいと思い、

インターネットで宮崎信義と検索してみたら、

面白そうなバンドをやっていると知り、オーバードで、ライブをやらないか、それで

僕の参加しているバンドの音源を聞かせて欲しいという事でした。

 

それから仕事の帰りにちょくちょく先輩のお店に お邪魔するようになりました。

 

いつ行っても、お店はお客さんで溢れかえっていて、活気と熱気があり 

若いスタッフ達も さすが先輩の下で働いているだけあって礼儀正しく 気持ちよく迎えてくれました。

 

そんなある日、テンダリーズの仕事の帰り、マコと一緒にお店に行きました。

マコは日常的にヴァイオリンはどんな時も 手元から放さない習慣が身についており

其の時もヴァイオリンを持ってお店に行きました。

 

あぁそうそう 手元から 放さないといえば 以前こんな事がありましたね。

 

地方の仕事の帰り、羽田空港で 着陸寸前に尾翼から煙が噴き出し一瞬機内は騒然となり

スチュワーデスたちは慌てふためき 

取り乱した様子で「お客さん落ち着いてください!落ち着いてください!!」

そうこうするうち 非常口が開き、脱出シュートがするするすると地面に滑っていきました。

 

「お客様!荷物を持たないで、逃げてください!!!」

 

マコはこんな時でもヴァイオリンを手元から放さず、脱出しようとしたそうです。

するとスチュワーデスが 「お客様、荷物は置いてください!!」

マコが一言冷静に「これは荷物ではありません。私の命同然です」

スチュワーデスが「お客様困ります!荷物を置いてください!!」

まこ「テメェ馬鹿野郎!ふざけんじゃねぇ!!客だと思って下手に出てればいい気になりやがって

調子に乗るんじゃねぇ!!!」と言ってパッと身をひるがえして 脱出シュートに滑り込んだらしいです。

真相は定かではありませんが・・・・

 

とまあ このくらい ヴァイオリンを手元から放さない人なのです・・・・

 

 

先輩と奥さんのTちゃんが、

「あら、マコさんはヴァイオリンを弾くんですか?

何か一曲ききたいなあ・・・」

 

続く・・・・

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2012年

2月

15日

和解・5

お店の名前は 「オーバード」

最初の扉をギーッと開け、うん?随分重たいなこのドア・・と思いながら

二つ目のドアを押してお店に入ってみると

奥の方に、ギター数本、ピアノ、ドラム、アンプ類などが置かれてあり

広めのラウンジ風な空間が広がり 左手のカウンターに2.3人、

そしてカウンターの中に懐かしい先輩が立っていました。

 

「おぅ! よく来たね、宮崎くん!」

「Fさん、お久しぶりです」

というような挨拶から 数十年ぶりの再会が始まったように記憶しております。

 

落ち着いてあたりをよく見渡してみると、

数人の若者と、奥さんのTちゃんと

客席には2,3組のお客さんたちがくつろいでいました。

丁度僕がお店に入ったときは Fさんのバンド演奏が終わって、休憩時間だったようです。

 

先輩のFさんが 「実は今日来てもらったのはさぁ・・・・・」

 

続く・・・・・

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2012年

2月

14日

和解・4

月日が流れて・・・・・

僕にも、バンドの仕事が入ってくるようになり 

レッスンと仕事に追われて先輩と会う機会も少なくなっていき

そして、いつしか、連絡も途絶えていました。

 

数十年後・・・・

パソコンも普及し、インターネットで色々な事が検索できる時代になり

突然、先輩から 電話が入りました。

「今、お店やってるんだけど 遊びに来ない?」

久しぶりだったので、色々様子も聞きたかったのですが、話もそこそこにして

先輩のお店に出向いていきました。

場所は麻布の一角、とてもお洒落な雰囲気の佇まいのお店でした。

ここに先輩がいるのか・・・・

よし!行くか。

 

続く・・・・

 

 

 

 

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2012年

2月

13日

和解・3

先輩は 若い頃から 当時スターだった ダークダックスやボニージャックスという

おしゃれなコーラスグループの専属ギタリストとして

大活躍をしていました。

そして日常は 其の頃一般的だった 所謂‘ハコ’の仕事としてナイトクラブで演奏していました。

 

一方、僕はといえば、師匠にピックの持ち方を教わり 

ドレミファソラシドを反復する基礎練習に明け暮れて 

ジャズのジャの字もありませんでした。

痩せた がりがりの 身なりもさみしい僕を 

先輩の仕事場である 新宿の高級ナイトクラブに連れて行ってくれて 

お店の隅に居させてくれて 仕事ぶりを勉強させてくれました。

 

1970年前後の話です・・・・

 

先輩のギターは きれいに澄んだ音で 理性的によくコントロールされたものでした。

「さすが、先輩、かっこいいなぁ」と思いました。

 

丁度このころ 僕は荻窪に住んでいて 塵紙交換をやりながら レッスンに通っていたのです。

 

続く・・・

 

 

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2012年

2月

12日

和解・2

売り言葉に買い言葉とはいえ、先輩に向かって テメェ馬鹿野郎!と叫んでしまった事は

自分の心に中に大きな後悔となって残りました。

 

先輩が 21,2歳で 僕が20歳の時 先輩の代田橋の安アパートで

‘枯葉’とか ‘softry as ・・・’ ‘朝日のようにさわやかに’など、

僕としては訳もわからずギターを弾いているのに 先輩は優しくいろいろ教えてくれました。

 

先輩が結婚して、新居を構えた時 若い奥様が食事を作ってくれて、

ひと時のあたたかい家庭的な雰囲気も味わわせてもらいました。

夕張から、単身上京していた僕には とてもありがたい忘れられない時間でした。

 

そんな先輩に向かって・・・・・

 

日毎に自責の念が大きく広がっていきました。

 

先輩、ごめんね・・・・・

 

続く

 

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2012年

2月

11日

和解

「テメー 馬鹿野郎 コノーッ!ふざけんじゃねえ!先輩だと思って下手に出てればいい気になりやがって

のぼせんじゃねえ!!!」 ガチャッ・・・・・・・・・・・

 

3年前のある日 何十年かぶりに私が 本当に怒った瞬間でした。

時間の経過というのは不思議な作用をもたらしてくれます。

いつのころからか 「先輩どうしてるかなあ・・・マコ、電話してごらんよ」

という気持ちが湧いてきました。

 

また時間が過ぎ、日々の生活に流れて、その事件の記憶も薄れていきましたね。

 

何回目かの「マコ、電話してごらんよ・・・」の気持ちが湧いて

ツルツルーツルツルー・・ いないみたいだね・・・・

まぁいいよ 今度にしようよ・・・

 

続く

 

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2012年

2月

08日

初ブログ

今日は悪戦苦闘してスケジュール欄に書き込みをしました。

手前味噌なのですが、色とりどりに綺麗に仕上たつもりです。

何人の方がご覧になり、何人の方がライブに来ていただけるのでしょうか・・・

ある意味非常に孤独な作業でした・・・

宣伝をするということは このように辛い作業なのですね。

やはりミュージシャンは腕を磨く事の方が、大切な事なのだと思ったりもしています。

皆様どうぞよろしくお願いいたします。

 

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