私の人生をかけた健康法
~冷え取り(靴下重ね履き)
生活療法について 

それから先のことは あまり詳しく覚えていないのですが、病院での
診断は たいしたことがなく 打撲程度の治療をしてもらったように
思います。
当時 僕は 全国で流行っていたエレキバンドをやっていました。
そう、小さな町夕張にも エレキの波が押し寄せてきていたのでした。
それに影響されて僕も 悪友のO君と「おれたちもやろうぜ」
「うん やろう。」

「どっちがリードギターやる?」

二人が同時に「俺!」といいました。
しょうがないから じゃんけんで決めるということになり 幸か不幸か
私が勝ちました。
その結果、僕がリードギター O君がベースギターと決定しました。
最初は二人だけで O君の家で 練習をしていました。

そのうち、サイドギターに M君が入り、ドラム担当のN君が加わり
ました。
やがてレパートリーも 
「太陽の彼方」 「ワイプアウト」 「ウォーク ドント ラン」
と3曲になり、その発表の最初のステージは なんと 旭町の我が家
でした。

6畳と8畳の部屋のふすまを外し、8畳の奥に4人が並び、反対側の
6畳に 父と母と姉 3人が並び、演奏会が始まりました。

ものすごく緊張しました。

それが僕のデビューでした。

1曲3分、3曲で10分足らず。
演奏が終わると 父と母が喜んで 大きな声で 「アンコール!」
「アンコール!」と言ってくれました。
メンバー4人集まって相談した結果、もうレパートリーがないから、
なんともう1度 最初から3曲やろうよということになり、
2度目の演奏を行いました。
終わると 父が ご祝儀として、一人千円ずつ 4千円のギャラを
くれました。
4人でラーメンを食べて、コーヒーを飲んで 反省会をして・・・

当時のエレキバンドは 不良の集まりといわれて 悪者扱いでした
が、僕達のバンドは学校から軽音楽部として認められて 
練習場所として 音楽教室も与えられ、
学校の行事、文化祭や 謝恩会に借り出されて 演奏するようになり、その頃には レパートリーは30曲以上、
エレキコンクールにも優勝して、 夕張で一番上手なバンドになっていました。

バンドの名前は
「サンダース」

そして僕達は 地方都市夕張の 

スーパースター

でした。

やがて 事故の怪我も治り 月日は流れて 憧れの東京の大学に
入学しました。

 

 

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